2012年10月16日火曜日

1759年(宝暦9) 幕府、賄賂の禁令を出す 「今後家老御側御用人、若年寄等皆音信贈物を堅く停止すべし」 【モーツアルト3歳】

東京 代官町通り
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1759年(宝暦9)
この年
山脇東洋『臓志』
宝暦4年(1754)閏2月、所司代に願って、処刑された罪人の屍体を解剖。この解剖の結果にもとづいて著わした。
かつて見たことのあるオランダの解剖図を思い出しながら、「今之を視るに、胸背の諸蔵(臓)は皆其の図する所の如し。実を履(ふ)むものは万里同符にして、敢へて嘆服せざらんや」と書く。真実に国境はないという確信である。
しかし、東洋の『臓志』は、まだまだオランダの解剖図には及ばなかった。ようやく、内臓の分布を知ったのみで、内臓の内部にまで立ち入っていない。頭部の解剖もない。要するにこれまでの内景図を確かめたというに過ぎないものであった。
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幕府、賄賂の禁令を出す
「前に述べたのは田沼意次その人への贈賄ならびにその収賄であるが、賄賂は一般にこの時代の風潮として盛んに行われておったのである。宝暦九〔一七五九〕年に幕府は令を出して役人らが音信贈遺を堅く禁じた。その趣は総て倹約の本は貴賤共にその禄の高を計り費を節し不虞の費用に備置く可きであるにその心をせずして、かえって家計のために利慾に耽ることは甚だ曲事である・人馬共にその分に応ずべきものであって万事を簡略にして奢侈を禁ずる事を忘れなければおのおのさのみ窮乏に及ぶまじきものである。今後家老御側御用人、若年寄等皆音信贈物を堅く停止すべしというのである。」(辻善之助『田沼時代』)
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・ロシア人の南下。
この年、松前藩士湊覚之進が厚岸に滞留中、択捉及び国後の酋長らから、一昨年(宝暦7年)クルムセ(北千島)に赴いた時、赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受ける。その後、渡来するアイヌ達からも、ロシア人が島伝いに南下しつつある事を聞き知る。
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・1756年からの7年戦争の結果、フランス軍がフランクフルト市に進駐。
ゲーテ(10)はフランスの演劇・古典文学を知る。ゲーテの語学的文学的才能はすでに驚異的なものとなって現われる。
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・ヴォルテール「カンディード」刊行。
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1月15日
・大英博物館、開館。ハンス・スローン卿(医者)の収集品(美術品や稀覯書)8万点を基礎とする。
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4月6日
・ヘンデル(74)、オラトリオ「メサイア」最後の指揮。
イギリスのコヴェント・ガーデン劇場。14日、没。

ヘンデル:
1685年2月23日ドイツのサキソニー州ハレに生まれ。74年間の生涯の内、イギリスに47年、ドイツに27年居住。
ハレ大学で法律を学ぶが、子供の頃から音楽好きで、父を説得し音楽教師ツァハウについて学ぶ。
17歳でハレ教会堂オルガン奏者となる。
20歳の時、歌劇「アルミーラ」を作り上演。のち、イタリア各地を4年間遍歴。
1710年ハノーヴァー侯の宮廷音楽長に就任。
翌年歌劇「リナルド」をロンドンで上演。引続き多くの歌劇を作曲上演するが、いずれも成功せず。経済的にも肉体的にも困窮。
療養後またも歌劇に没頭するが成功せず、余技のオラトリオ「メサイア」(1742年4月13日ダブリンで初演)が世間から最高の賛辞を受け運命が開く。
その後、次々とオラトリオを書き、オラトリオで偉大な楽聖の栄冠を得る。「メサイア」「エジプトにおけるイスラエルの民」「ユダス・マッカベウス」「サウル」は不朽の名作。
1751年、盲目となる。没後、イギリス国王は、ヘンデルの功績をしのび、遺骸をウェストミンスター寺院に埋葬させる。
バッハとは、同時代の同じドイツの音楽家であるが、生涯会う機会がなかったが、バッハはヘンデルを尊敬し、ヘンデルの作品を写譜し、妻と共に演奏したと伝えられる。
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5月
・ルソー、「エミール」執筆開始。
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5月21日
・フランス、ジョゼフ・フーシェ、ナントに誕生。
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6月6日
・フレンチ・インディアン戦争、ケベック攻略のイギリス海路軍(ソーンダーズ提督指揮船団200隻、ジェイムズ・ウルフ陸軍少将指揮上陸軍8500)、セントローレンス河遡行開始。
船団先頭ジェイムズ・クック船長、慎重な深度測定・浮標設置を行って僚船の座礁を回避。
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6月21日
・萩生徂来門下の逸材服部南郭(77)、没。
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7月8日
・北米、フレンチ・インディアン戦争、アマースト将軍、タイコンデロガ、クラウンポイント攻略。別働隊がナイアガラ攻略。
19日、レヴィ岬からの援護射撃に守られたイギリス小艦隊、ケベックを通り過ぎてその20マイル上流(西)に上陸。
ケベックは東と北東と西を囲まれる。
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