2012年12月5日水曜日

1763年(宝暦13)12月 モーツアルト、グリムの斡旋によりヴェルサイユ宮殿で演奏 【モーツアルト7歳】

江戸城(皇居)東御苑 2012-11-27
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1763年(宝暦13)
12月
・北米、「バクストン・ボーイズ」。
バクストンドネガルの町から来たスコッチ・アイリッシュ系辺境順民、ランカスター救貧院に避難中の先住インディアンを大虐殺。他に、シールキル川プロヴィンス島に匿われているインディアン140人も虐殺。更に、フィラデルフィア内を荒らしまわり、インディアン贔屓であるとしてクェーカー教徒も殺戮。
ベンジャミン・フランクリンは義勇軍を創設するが、説得によって彼らを解散させる。首謀者さえ処罰されず。フランクリンは「白人キリスト教徒の野蛮人」を非難するパンフレットを書く。
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中旬
・フランス、モーツアルト、非公式の演奏会の場で、ルイ15世とポンパドゥール夫人の前で演奏する機会を得る。
レオポルトは、ポンパドゥール夫人の美しさに見とれたものの、その傲慢さには閉口したという。その振る舞いはまるで女帝のそれであった。
ヴォルフガングが、夫人が彼らの料理人トレゼルにそっくりだと耳元で囁いた時、レオポルトは笑わずにはいられなかった。
モーツァルトは演奏後、ポンパドゥール夫人にキスを求めたが、夫人はこれを拒否。幼いモーツァルトの心を傷つけたのである。モーツァルトはすでにオーストリアの女帝マリア=テレジアからキスの祝福を受けたこともあったのに。
モーツァルト一行がフランス宮廷の堅苦しさに直面した一場面。
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12月24日
・モーツアルト、グリムの斡旋によりヴェルサイユ宮殿で国王ルイ15世ら王族に謁見
この日、宮廷礼拝堂で催された深夜のミサに列席。
1月8日までの2週間滞在

12月中には、女官のテッセ伯爵夫人やカリニャン公妃の許に出向き、金製の嗅煙草入れや銀製の筆入れなどを賜わっている。

モーツァルト一家は12月の終わりに正式に招待され、24日以降宮殿のすぐ近くに位置するコーミエ邸(現パントル・ルブラン通り6番地)に宿泊。
王家の家族の前で演奏を終えるや否や、幼い演奏家たちは王太子やルイ15世の娘である王女たちから幾度もキスの祝福を受けた。観客の関心度をキスの数で測ったレオポルトは大満足。

フリードリヒ・メルヒオル・グリムが編集する「文芸・哲学・批評通信」1763年12月1日号。
「ほんとうの奇蹟というものは、たいへん珍しいものなので、それに出会う機会を得たならば、お話し申し上げる必要がありましょう。モーツアァルトというザルツブルクの楽長が、世にも愛らしい二人の子供と当地に着いたところです。彼の娘は十一歳ですが、たいへん華麗にクラブサンを弾きます。彼女は驚くべき正確さで、大曲や難曲を演奏するのです。その弟は今度の二月には七歳となりますが、あまりにも並はずれた現象なので、だれも自分の眼で見、耳で聴くことを信じるのが困難なほどです。6度にやっと届くかとどかないぐらいの手で、最大の難曲をきわめて正確に演奏するのは、この子供にとってなんでもないことなのです。信じがたいのは、彼が一時間もの間、楽譜なしに弾奏し、そこで自らの天才の霊感とたくさんの魅惑的な楽想におのれをゆだね、そうした楽想を、趣味をもって、混乱もせずに、次々と続けることもできることです。老練この上ない楽長でも、彼ほど和声や転調の知識に深く通じていることはできますまい。彼は、一般にほとんど知られていないが、しかしいつも正確な仕方で、転調を行なうことができるのです。彼は鍵盤に慣れ切っているので、その上に布切れをひろげて隠しても、その布切れの上から同じ速さで同じょうに正確に弾きます。人が持ち出すものをすべて、すぐその場で弾いてのけることなどなんでもありません。彼は驚くべき容易さで書いたり、作曲したりしますが、クラヴサンを傍に置いたり、和音を探したりする必要はないのです。

私は彼のために一曲のメヌエットを書き、それに低音をつけてくれるよう頼みました。この子供はペンを取り、クラヴサンに近寄りもせずに、私のメヌエットに低音をつけました。差し出された曲を要求どおりの調に移したり、その調で演奏したりするのは、彼にはまったくなんでもないことがお分かりでしょう。ところが、私が目のあたりにし、しかも理解しがたい次のようなことがあります。さる婦人が、先日、彼女が暗譜しているあるイタリア語のカヴァティーナを、耳で聴いて、しかも楽譜は見ないで伴奏するように頼みました。彼女は歌い出しました。子供は低音をつけるように試みましたが、これは完全に正確ではありませんでした。というのは、知らない歌の伴奏をあらかじめ準備するのは不可能だからです。しかし歌い終ると、彼は婦人にもう一度始めるように頼みました。そして今度は、彼が右手で歌の旋律を弾いたばかりか、もう一方の手で、楽々と和音をつけました。そのあと、彼は十遍もくりかえすように頼み、そのたびごとに伴奏の性格を変えたのです。もしやめさせなければ二十遍もくりかえしたことでしょう。私がこの子をもっと頻繁に聴けば、きっとこの子に夢中になってしまうでしょう。奇蹟を見て気違いにならないように身を守るのはむずかしいことを思わせてくれます。聖パオロ様が、その不思議な見神のあとで、気がふれたようになったことを私はもう奇妙とは思いません。モーツァルト氏の子供たちは、彼らを見た人たちすべての驚嘆の念を惹き起こしました。(オーストリアの)皇帝と皇后はたくさんの引出物を彼らに贈りました。彼らは同じようなもてなしをミュンヒェンの宮廷やマンハイムの宮廷で受けました。残念なことは、この国では音楽が解る人があまりにも少ないことです。父親はここから英国に渡り、続いてドイツ南部を通って帰ろうと考えています。」

「奇跡の子供たちが到着したこと」を伝え、「彼は鍵盤に慣れきっているので、その上に布切れをひろげて隠しても、その布切れの上からおなじ速さでおなじように正確に弾きます」とヴォルフガングの軽業芸いついて書く。

フリードリヒ・メルヒオル・グリム(1723~1807):
レーゲンスブルク生まれのドイツ人、1749年からパリに定住、百科全書派メンバで、「フランス百科全書」に寄稿。ジャン・ジャック・ルソーと交友関係をもち、2人が「ブフォン論争」の主役を演じたことは音楽史上にも名高い。1753年から『文芸通信』と題された時事通信をドイツの各地その他の宮廷に送っていた。これは、グリム自身そのフランス大便を務めたザクセン=ゴータの皇太子妃ドロテーアのすすめで始められたもので、当時のパリを初めとするヨーロッパ各地の文化上の消息を知るのに恰好な資料となっている。
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