2012年12月11日火曜日

1764年(宝暦14/明和元)2月 モーツアルト、『作品1(k6、k7)』出版 【モーツアルト8歳】

東京 新宿御苑
*
1764年(宝暦14/明和元)
2月
・平賀源内、猪俣村で石綿を使った燃えない布を製造して火浣布(ひかんふ、耐火布)と名づける。
*
・モーツアルト(8)、「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」(K.6、K.7)を『作品1』として出版(最初の印刷譜)。フランス国王ルイ15世第2王女ヴィクトワール・ド・フランス夫人に献呈。
ヴォルフガングは既に誕生日を過ぎ8歳になっていたが、父は宣伝効果を考え7歳とする。
献呈文起草はグリム、彼にはヴェルサイユ宮殿でルイ15世の前で演奏する機会も作ってもらったり世話になる。

レオポルトの、ザルツブルクの家主ハーゲナウアーの夫人マリア・テレジアに宛てた1764年2月1日付手紙。
「今、ヴォルフガング・モーツァルト氏の四曲のソナタが版刻中です。表紙にこれが七歳の作品だと書いてあったとき、これらのソナタが世間でひきおこすだろう大騒ぎをご想像下さい。」

この4曲:『作品1』(K6、K7)、『作品2』(K8、K9)
「私たちはおそくも二週間後に再びヴェルサイユに参りまして、偉大なるヴォルフガング氏の版刻されたソナタの作品第一番を国王の第二王女マダム・ヴィクトワールにお手渡し致します。この作品第一番はこのお方に献呈されます」(1764年2月22日付手紙)。

『作品1』の印刷譜のタイトル・ページ
「ヴァイオリンの伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ。七歳のJ・G・ヴォルフガング・モーツァルト、ザルツブルク出身、により、マダム・ヴィクトワール・ド・フランスに捧ぐ。作品一。四ルイ・ドール四ソル。旧サン・ジャック街。現サン・トノレ街パレ・ロワイヤル向かい。ヴァンドーム夫人版刻。国王により允許。」

グリムが執筆した献辞
「マダム・ヴィクトワール・ド・フランスに
王女様(マダム)
私があなた様の御足下にお捧げいたしますこの試みは、おそらくは凡庸なものでございましょう。しかしながら、あなた様の御慈愛によりまして、私がこれらの曲をあなた様の御尊名で飾りますことが許されるならば、これらの作品の成功はもはや疑いなく、また聴衆はあなた様の庇護のもとに立ち現われました七歳の作者に対して寛大さに欠けることはありますまい。
王女様、音楽の言葉は感謝の言葉であれかしと望むものであります。あなた様の御恵みが私の心にお残しになった刻印についてお話し申し上げる方が、当惑することが少ないことでしょう。私はその思い出を故国へと持ち帰るでありましょう。そして、鴬を創りなしたごとく私を音楽家となした自然が私に霊感を吹き込んでくれるかぎり、ヴィクトワールの御名は、この御名がなべでのフランス人の心に記している忘れがたい特徴とともに、私の記憶のなかに刻まれて残るでありましょう。
深甚なる敬意をもって
王女様
汝のいとも賎しく、いとも従順にして、またいとも小さきしもべ
J・G・ヴォルフガング・モーツァルト」

モーツァルトは既に8歳を過ぎていたが、献辞でも7歳の作曲家ということが強調されている。

『作品2』は、かなり遅れてから同様のタイトルと献辞とを掲げ、「王太子妃様典侍ド・テッセ伯爵夫人様」に捧げられている。

第1、2、3楽章はナンネルルの楽譜帖にレオポルトにより書き込まれたクラヴィーア独奏用の原型がある。
第1楽章は、「一七六三年十月十四日ブリュッセルにて、ヴォルフガンゴ・モーツァルトによる」と但し書きがあり、第3楽章の第2メヌエットには「一七六二年七月十六日、ヴォルフガンゴ・モーツアルトによる」と付記される。
フィナーレは、この曲を纏める為に一番あとに書かれている。またヴァイオリンのパートは、ソナタとして出版されるにあたり書き加えられる。

このモーツァルトの最初のソナタには、モーツァルトがパリに来る前に書いた部分と、パリで書いた部分との作風の違いが明確に見られる。
更に全曲がパリで書かれたK7は、K6よりもずっと楽想が伸び伸びとし、後年のモーツァルトの魅力が現れている。

△ヨハン・ショーベルト;
1735年頃、シュレージュンで生まれたらしい。
当時パリでは、エッカルトと並び称されるハープシコードの名手で、人気ある作曲家。
1763年末か1764年初め、ショーベルトはモーツアルト一家を訪ね、彼のソナタの版刻した楽譜を、幼いモーツアルト姉弟に贈呈。
モーツアルトはショーベルトの音楽をこの時に初めて知り、それにのめりこむ。
レオボルトは、1764年2月1日付の手紙で、ショーベルトを「卑劣な人物」、「不実な人間」と評価する。
モーツアルトのザルツブルク風からの脱却(=自分の手の及ばない世界への歩み始め)を感じ取ったためと思える。

「ショーベルト氏は、話に聞くような人物ではまったくありません。彼は人前ではおべんちゃらを言いますが、たいへん不実な人間です。彼の宗教は流行のものです。神が彼を改宗させて下さいますように!」。

『作品1』『作品2』の、2曲1組というかたち、ヴァイオリンを伴ったクラヴィーアのソナタというジャンル、曲の作り方と響きが、パリ存住のドイツ系作曲家たち、とりわけショーベルトの影響が大きいものであるかを物語っている。
*
2月5日
・フランス人、セント・ルイスを建設。
*
2月11日
・奥村政信(79)没。浮世絵奥村派の始祖、この時期の代表的絵師。
*
2月14日
・故将軍吉宗の望んだ「古今図書集成」1万巻が清からようやく輸入され、長崎奉行が江戸へ送付、幕府の紅葉山文庫へ納められる。
*
2月中旬
・モーツアルト姉弟2人の御前演奏によって父レオポルトは1,200リーブル(約550グルテン)入手。ここでもヴォルフガングは奇跡的な見世物で人々を驚嘆させる。
また、2月半ば、モーツァルトは「急な喉の痛みとカタル」に襲われるが、レオボルトの手当てですぐに回復する。
*
2月22日
・モーツァルトの父レオボルトが観察したフランス王国没落の前夜のパリの社会や風俗
パリの女性の過度な粉飾ぶりや道徳上の頽廃、無責任な新生児の養育の仕方、パリ大司教クリストフ・ド・ボーモン追放にまつわる世俗の権力の強大さ、日蝕の折の混乱ぶりなど。
一家がオテル・ド・ボーヴェに寄宿中、ヴァン・アイク伯爵夫人がふとしたカタルがもとで没した。レオボルトはその原因を流行の瀉血にあると捉えている。

2月22日付けハーゲナウアー宛手紙
「人は誰でも、どこでも喜んで死ぬものではありませんが、当地では、立派なドイツ人が病気になったり、まして死んだりするのは、途方もなく悲しいことに思われます。」
「それに当地のお医者さんは瀉血をたいへん好まれるので、彼らは瀉血によって大勢の人たちをあの世に送っています」とある。
1778年の彼の妻、モーツァルトの母、マリーア・アンナのパリでの客死を予言するようだ。
*
2月27日
・将軍家治が朝鮮通信士にあう。3月1日、朝鮮通信士の馬術を見学。
*
*


0 件のコメント: