東京 新宿御苑
*1764年(宝暦14/明和元)
3月
・この月、モーツァルト一家がザルツブルクから連れてきた従僕ヴィンターが職を辞し、ドーナウエッシンゲンのフュルステンベルク侯の理髪師となる。後釜にジャン・ピエール・ポチヴァンという理髪師を雇う。
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3月10日
・モーツアルト、パリで最初の公開音楽会。4月9日、第二回目。
会場は、グリムの努力で、サン・トノレ街のフェリックス邸の劇場。
「これはさる貴族の方の邸内の広間で、ここには小さな劇場があり、そこで貴族の人たちがしょっちゅう自分たちで演じたり、芝居を上演したりしており、この場所を私はこの邸内に住んでおられるド・クレルモン夫人を介して見つけたのでした」
「音楽会を二回催す允許はまったく特別のものといってよく」、有力な貴族たちの紹介でやっとこの許可を得たもの(レオポルト)。
収入は予想外に多かった
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3月11日
・幕府、対清貿易品の煎海鼠・干鮑増産を図り、新規参入の漁村民へ当分の間、税の一種である運上の免除措置をこうじる。
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3月26日
・(露暦3月15日)キリル・グスタヴォヴィチ・ラクスマン、パルナウル着。
1768/12/1(露暦)までの5年間在任中、人跡未踏の山野を調査し、ロシア・ヨーロッパの学者たちと文通しシベリア学者としての評価高まる。
キリル・グスタヴォヴィチ・ラクスマン:
(露暦)1737/7/27、フィンランドのネイシュロト市に誕生。
1757年、アボ市の大学入学、数週間で経済的問題より数週間で退学。フィンランド東部の村の副牧師となり自然科学を独学。
1762年ペテルブルクに移り、著名なドイツ人地理学者ビュシングと知合い、彼の尽力でドイツ教会付属学校の博物教師となる。
1764/1/19(露暦)ロシア科学アカデミー通信員に選出。1月末、西シベリアのルター派教会牧師となるため、老母・新妻と共にペテルブルク出発。
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4月5日
・イギリス(ジョージ・グレンヴィル内閣)、「砂糖法」(「アメリカ歳入法」)制定。
砂糖関税は半額になるが、徴収が厳重になり、密輸監視も厳しくなる。
フレンチ・インディアン戦争(1754年~63年)で負った莫大な負債を返済するための資金集め。
ニューヨークなど各地で英国製品の不買運動起こる。
本国との対立は急速に進展。ボストンのサミュエル・アダムズら、独立運動を組織。
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4月7日
・唐人殺し(とうじんごろし)。
大阪の北の御堂の旅館で、対馬の通辞役鈴木伝蔵が、来日中の朝鮮使節の随行員崔天悰を殺害。
使節一行330余が3月11日、江戸を出発し、大阪に滞在中の事件。
4月6日暮れ、御堂御台所で行列奉行の朝鮮人と口論になり、さんざんに打擲されたので、日本人の恥辱をそそぐために討ち果たしたという。
鈴木は摂州の小浜でとらえられ、5月2日、木更津で朝鮮側の立ち会いのもとに死刑に処せられた。
この事件は後の歌舞伎などに脚色された。
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4月9日
・モーツアルト、パリで第2回の音楽会。
「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」(K.8、K.9)を『作品2』として出版、ド・テッセ夫人に献呈。
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4月10日
・モーツアルト一家、大部分の荷物はパリの知人宅に預け、下男(御者、イタリア人)をもう1人雇った上で、パリを出発。カレーに向かう。
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4月15日
・フランス、国王ルイ15世愛人ポンパドゥール侯爵夫人(42)、肺の病のため没。
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4月19日
・英、通貨法制定。植民地に対して紙幣発行を禁止。
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4月19日
・モーツアルト一家、カレー到着。
港町カレーに自家用馬車を置き、特別に借りた船でドーヴァー海峡を渡る。 イギリスへの旅を終えて再びカレーに戻るのは翌1765年8月。
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4月23日
・夕方、モーツアルト一家、ロンドン到着。ピカデリーの「ホワイト・ベア(白熊館)」に宿をとる。
その後、セント・マーチン・レイン、セシル・コート(現19番地)の理髪師ジョン・カズン宅に移る。
当時、ロンドンは人口約100万の大都会、パリは70万人、ウィーンは20万人。
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4月27日
・モーツアルト、午後6時から9時まで、クイーンズ・パレス(後のバッキンガム宮殿)で国王ジョージ3世・王妃シャーロット・ソフィーに謁見。
5月28日付けレオボルトの手紙。
「引出物はたしかに二十四ギニーだけで、これは国王のお部屋から退出した時、すぐに拝受しましたが、国王陛下様ならびに王妃陛下様ともどもに、私どもに謁見くださった折のご愛顧は言葉では言い尽すことができません。かいつまんで申し上げれば、お二人の親しいご関係やお二人の親切なお人柄は、私たちにはこれが英国の国王であり王妃であるなどとはもうとても思えないものだったのです。宮廷という宮廷でまったく特別なほど丁重に私どもを迎えて下さいましたが、当地で経験したこの作法は、他のすべてにはるかにぬきんでています。」
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5月
・尼崎藩、宝暦3年発行以外の岡村銀札の通用停止を命じる。
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・幕府、鎌倉での大筒稽古について、隔年稽古のうち1年は請願者全員の300匁玉の遠近撃ち実施を決める。
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5月16日
・幕府、秋田藩に対し阿仁銅山と周辺の土地1万石の召し上げを通告。名目は経営難の救済、真の狙いは幕府の銅の確保。
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5月19日
・モーツアルト、午後6時から10時まで、再び宮廷伺候。
引出物は前回と同様24ギニー。
「国王はあの子の前に、ヴァーゲンザイルの曲ばかりでなく、バッハ(ヨハン・クリスティアン・バッハ)、アーベル、それにヘンデルの曲も差し出されましたが、あの子はことごとく初見で弾き飛ばしたのです。あの子は国王のオルガンで、みんながそのオルガン演奏をクラヴィーアを弾くよりずっと高く評価するほどみごとに弾奏しました。それから王妃のお歌いになるアリアや横笛奏者の独奏に伴奏をつけました。最後にあの子は偶然そこに置いてあったヘンデルのアリアのヴァイオリンの譜面を取り上げて、そっけないバスの上に、まことに美しい旋律を奏したので、一同まったくびっくりしてしまったのです。要するに私どもがザルツブルクを発ったときにあの子が知っていたものは、現在あの子が知っているものからすれば、まったくの影にすぎないのです。それはおよそ想像力という想像力を踏み越えるものです。」
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5月20日
・モーツアルト、病気になり演奏をキャンセル、月末に回復する。ロンドン市内のあちこちのホールでしょっちゅう演奏会が開かれ、奇跡を見るために人々が集まった。幼い2人には酷なスケジュールである。
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5月24日
・米弁護士ジェームズ・オーティス、「英領植民地の権利」刊行。英の代表なき課税を非難。
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5月31日
・イギリス軍、マニラ占領終結。
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