北の丸公園 2014-08-05
*菅野駅や省線市川駅周辺の露店への買物にも慣れ、田舎だけに東京に比べまだ食料事情がいいことがわかってくると(甘党の荷風は露店で汁粉を売る店があるとよくそこに入る)、次第に心にゆとりも生まれて来たのだろう、頻繁に近隣を歩くようになる。
折りから季節も春から初夏。散歩にはいちばんいい季節である。
昭和21年3月7日
「近巷の園梅到處満開なり、農家の庭には古幹に苔厚く生じたる老梅あるを見る、東京には無きものなり、籬笆茆舎(リハボウシヤ)林下に散見する光景おのづから俳味あり」
3月24日、
越してからはじめて俳句を作る。戦後の混乱期とは思えないほどののどかな市川(葛飾)の田園をうたっている。
「葛飾に越して間もなし梅の花」
「紅梅に交りて竹と柳かな」
「人よりもまづ鶯になじみけり」
「鶯や借家の庭のほうれん草」
4月22日、
菅野を「うつくしき里」と称える句を作る。
「松しげる生垣つゞき花かをる菅野はげにもうつくしき里」。
梅が咲き、花が香り、鶯がやってくる穏やかな小農村が荷風の心にゆっくりと泌みこんでいる。
4月29日、
「午前江戸川堤を歩む、堤防の斜面にも麦植えられ菜の花猶さき残りたり、国府台新緑の眺望甚よし」
5月11日、
「晝飯後散策、露店にて鶏卵を買ひ白幡天神祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む、帰途緑蔭の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集をよむ、砂道平にして人来らず、唯鳥語の欣々たるを聞くのみ、此の楽しみも亦市川に来るの日まで豫想せざりし所なり」
戦後の荒廃のなかでこのあたりには、まるで戦争がなかったかのような田園風景が残っている。堤に菜の花が咲いている。鳥が鳴いている。
5月12日、
散策の折りに松林のあいだに小さな祠があるのを見つける。
岡を降りて田のあいだを歩いていくと牧場がある。ブドウやナシを植えているところもある。用水の流れには河骨(コウホネ)の花が咲いている。畔道にはきんぽうげやタンポポに似た黄色い花が咲いている。麦はすでに熟し、農婦が水田を耕している。「国破れて山河あり」といいたいようなのどかな里の風景。荷風はそのなかに静かに溶けこんでいる。
神社には植木市が立つ。
家々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷が植えられている。
荷風が借りた家の庭には5月になると牡丹が「百花爛漫」とあでやかに咲く。
昭和21年5月10日、
思わず句を作る。
「富まぬ身も牡丹眺むる浮世かな」
「戦ひに國傾きて牡丹かな」
戦争があったことも知らないように梅や桜、牡丹が咲く。茅ぶきの農家の庭先では、井戸の水で米をといでいる主婦の姿も見える。荷風はこうした平凡な、箱庭のように手入れのよく行き届いた風景に目を細めている。
荷風は、このあたりの田園風景が好ましいのは、いわゆる名所の風景ではないからだといかにも荷風らしい感想を述べる。
松林のあいだを貫く坂道のふもとに水が流れていて、朽ちた橋の下で女が野菜を洗っている。
葉鶏頭が寂しげに立っている農家の庭先で、秋の日を浴びながら二、三人の女が莚を敷いて何か物の種を干している。
「田舎のどこへ行つても見ることの出来る、いかにも田舎らしい、穏かな、平凡な風景」、荷風はそれに惹かれる。
「特徴のないだけ、平凡であるだけ、激しい讃美の情に責めつけられないだけ、これ等の眺望は却て一層の慰安と親愛とを催させる」
2月になれば京成電車線路の南側にある浅間神社では梅の花が早くも点々と咲きはじめる。
3月に弘法寺を訪れると本堂の傍にある三、四本の老梅が雪のような花を咲かせている。
4月になると真間川の畔に桜が咲き、弘法寺では垂糸桜が満開になる。菅野一帯は花の里である。
昭和21年5月10日、
「借家の庭に躑躅牡丹薔薇藤その他花樹多し、昨日の散歩にて近巷に植木市の立つを知り、前に住みし人皆そこより購ひ来りしを知りぬ、窓前今まさに百花爛漫の趣あり、殊に牡丹紅白数株ありて花の盛なり、流寓の身にとりては是亦意想外の幸福ならずや」
戦時下ほとんど忘れていた花への想いを再び取り戻す。
近くの船橋海神の町に別宅を持った知人の相磯凌霜から、偏奇館時代の愛読書、館柳湾の園芸書『林園月令』を借り受けたのもこのころ(昭和21年3月10日)。
荷風は花の里で静かな「幸福」を味わっている。
文学者嫌いの文学者、インテリ嫌いのインテリの荷風は、近隣に実直な生活者ばかりなのを見て喜びもする。
昭和21年1月21日、
「住民の風俗も渋谷中野あたり東京の西郊にて日常見るものとは全く相違して所謂インテリ風に化せざるところ大に喜ぶべし」
葛飾八幡の境内を歩き、絵馬堂の額が嘉永安政のころと知って心にとめる。
5月9日、
「画工もさしたる名家にてはあらざるが如し、されど近年かくの如きものを見ること稀なれば淺草観音堂のむかしなど思出でゝ杖を留むること暫くなり」
近くの水田を白鷺が飛ぶのを見て感激する。
5月19日
「時に白鷺一二羽貯水池の蘆間より空高く飛去れり、余の水田に白鷺を見、水流に翡翠の飛ぶを見たりしは逗子の別墅に在りし時、また早朝吉原田圃を歩みし比の事にして、共にこれ五十年に近きむかしなり、今年齢七十に垂んとして偶然白鷺のとぶを見て年少のむかしを憶ふ、市川の寓居遂に忘るべからざるものあり」
10月14日、
「午後海神に至る、路傍の雑草中つゆ草の花猶咲き残れるを見る、紫青の色殊に愛すべし」
11月14日、
「午後海神町無線電信所附近の畠地を歩む、葱大根白菜菠薐草をつくる、土地に高低あり、此方なる高處に立ちて松林の間に彼方なる低き田疇を望めば冬の日うららかに野菜の葉を照したる、其の色彩の妙言ふべからず」
まさに田園は「美しき里」である。
これはおそらく、実際の市川が「美しき里」であったという以上に、荷風が市川とその周辺の田園を「美しき里」と見立てることで「流寓の身」を慰めたいという心理も作用した結果だろう。
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