2014年9月15日月曜日
野口冨士男『わが荷風』を読む(2) 「1 明治四十二年十二月」 (その2終) 「明治四十二年十二月は、文明批評家としての永井荷風と、郷土詩人としての永井荷風がまだ融和しきれぬかたちながら、きわめて高く聳立した時点であった。」
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風景を重視した彼は、さらにそれをより効果あらしめるために季節感にも重点をおいて、八月にはじまる『すみだ川』を翌年の初夏で閉じているのも、ひととおり四季のうつろいをえがいて、その変化のうちに隅田川周辺のもつ江戸的情趣をいやが上にもかき立てることを計算に入れていたからにほかならない。様式美を尊重した、彼らしい配慮である。
春の末から夏のはじめにかけては、大雨が降る。
東京の下町では、大正十三年に岩淵水門が出来て荒川上流の水を放水路へみちびくまで雨後の洪水が年中行事であったから、季節感に敏感な荷風はそれを作中にとりいれて、『すみだ川』一篇のしめくくりとしている。
現在の眼で読めば、あまりにも浮世ばなれのした大甘な結末で顔を赧(あか)らめずにいられぬものがあるが、もともと『すみだ川』は河岸とその周辺の風物をえがいて、消えゆく江戸の情趣をうたいあげることを目的とした作品で、作者自身、作品の内容ははじめからたいして問題にしていない。といえば、ずいぶん読者をばかにした話だが、それにはひとつの理由があった。思想上の帰結がうんだ作品だったからである。
文末に《明治四十二年八月 - 十月作》と附記されている『すみだ川』は、同年十二月の「新小説」に発表されたものである。そして、荷風は同年同月「東京朝日新聞」に『冷笑』を連載しはじめている。
が、郷土詩人としての特性が最大限に発揮されている『すみだ川』がひとつの完成度を示してこの期の代表作たり得ているのに反して、彼のもう一方の特徴である文明批評家としての面を極限にちかいまでに発揮している『冷笑』が、登場人物一人一人の日本文化批判ともいうべき議論にのみ終始して、小説作品としての具象性をまったく欠いた失敗作となっていることも皮肉な現象ながら、その両作が当時の彼の抱懐していたひとつの思考から派生していたことは、さらにいっそう皮肉であろう。
明治四十二年十二月という同一時点において発表された『すみだ川』と『冷笑』という二つの作品は、さまざまな意味で一本の幹から大きく左右にわかれて伸長した二本の枝のようなものであった。
明治三十六年九月に渡米した荷風が残りの十ヵ月をフランスに滞在して帰国したのは四十一年七月だが、そこに彼を待ち設けていたものを言であらわそうとすれば、栄光と悲惨というありふれた表現ほど適切なものはない。
洋行土産である『あめりか物語』、『ふらんす物語』に盛られた主情的な耽美精神は、世紀末の頽唐を讃美する浪漫派の「明星」一派によろこびむかえられる一方、それとは対立的な側に立つ自然主義者たちも暗鬱さや虚無的な面 - つまりそれぞれが自派の好みに合致した面をとらて称揚したが、事実はそれらの讃辞とうらはらのところにあった。
すなわち、荷風が翌四十二年に入ってから続けざまに発表した実質的な帰朝後の作品--『深川の唄』、『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)などは、いずれも彼を熱狂的に歓迎した人びとが形成していた明治末の東京がもっていた近代国家、ならびに近代都市としての未成熟、西欧文明の猿真似に対する徹底的な嫌悪であり、痛烈な蔑視と揶揄と呪詛であった。
帰朝した主人公が神戸埠頭に出迎えた弟をみた瞬間、「あゝ、人間が血族の関係ほど重苦しく、不快極るものは無い。」とのべている『監獄署の裏』の一節は、単に肉親の一個人に対する嫌悪にとどまるものではなく、そのまま荷風の母国に対する嫌厭の表白であった。
爛熟期のフランス、特にベル・エポックのパリをみてきた荷風の眼には、日露戦争後の新興国として西洋模倣に狂奔しながら、しかもなお遠く及ばなかった明治末葉の貧寒とした東京のみすぼらしさ、物ほしげないやしさと並行して進められつつあった旧物破壊の無神経がなんともたえがたかったのは当然であったろう。
東京に集約され、代表されていた明治日本の社会風俗が西洋文化の表皮的な模倣にのみ偏して、日本固有の伝統文化との間にはなはだしい不均衡が生じていると観じ取った荷風は、『深川の唄』や小品文『霊廟』などからもうかがわれるように、それ以前の、よき一致調和のとれていた日本文化の純粋状況を、やや強引に江戸の遺産のなかに発見しようとする。
《江戸時代はいかに豊富なる色彩と渾然たる秩序の時代であつたらう。今日欧洲の最強国よりも遙に優る処があって、又史家の嘆賞する路易(ルイ)十四世の御代の偉大に比するも遜色なき感がある。》(「冷笑」)
西欧一辺倒が、わずか一年たらずのうちにここに到ったのである。こうした江戸文化ないし江戸情緒への作為的ともおもわれる急速なのめりこみを、郷土詩人の立場に立って声高にうたいあげた東京讃歌が『すみだ川』にほかならない。そうでなくて、どうしてあんな顔の赧らむような大甘な結末がうまれてくるものか。
明治四十二年十二月は、文明批評家としての永井荷風と、郷土詩人としての永井荷風がまだ融和しきれぬかたちながら、きわめて高く聳立した時点であった。
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