2014年9月10日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(42)「”私は幸福だ”(soy feliz)」(3) 「ゴヤの肖像画は人間論であり、人物論であると同時に、歴史のための二つなきドキュメントでもありうる」

*
ゴヤの後援者、建築家のベントゥーラ・ロドリゲス氏。
エル・ピラール大聖堂、サン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂の設計。
総理大臣フロリダプランカ伯爵と親しい間柄。
サン・カルロス銀行の設計、取締役。
「ゴヤがマドリードの上流階級貴族社会へもぐり込むについて、・・・彼の手をとってくれた人は、結局は、建築家のベントゥーラ・ロドリゲス氏であった、と私は結論をするものである。
というのは、ゴヤが最初の勝利を収めることになる、郷里サラゴーサのエル・ピラール大聖堂の天井画を描いた、この大聖堂の設計者がほかならぬロドリゲス氏であった。しかも、この建築家は、生涯を通じてこの大聖堂を、自分の最大の傑作として来たものであった。そうして、一七八四年に画家がこの建築家の肖像を描いたとき、彼はこの肖像画のなかに建築家の手にしている大聖堂の設計図を描き込んでいる。それは、この建築家がエル・ピラール大聖堂の仕事を誇りとしていることを示すと同時に、ゴヤの感謝の念をあらわしているのであろう。この設計図には、「ベントゥーラ・ロドリゲス氏、ドン・ルイース殿下の建築家にして、マドリード市の建築長、妃殿下(マリア・テレーサ)の命により、一七八四年、フランシスコ・ゴヤ描く」という詞書をしるしている。」

「詞書にあるように、ロドリゲス氏は、ドン・ルイース殿下付きの建築家であって、王の建築家ではなかった。カルロス三世が即位をするまでは王付き次席のそれであったのであるが、カルロス三世は、彼の同僚のサバティニ氏を登用し、氏は自由に、スペイン各地で聖堂や大貴族の館の設計、建築に従事していたものであった。サラゴーサのエル・ピラールだけではなくて、ゴヤが、やはり装飾画を描いたマドリードのサン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂もまたこの建築家の手になるものであった。
しかも、このロドリゲス氏は、総理大臣のフロリダプランカ伯爵と親しかった。フロリダプランカ伯の肖像を描くについては、サラゴーサの名士で、実業家でもあったゴイコエチェア氏の推薦があったとったえられているが、サラゴーサでエル・ピラール大聖堂建築の指図をしているときに、ロドリゲス氏はおそらくゴイコエチェア氏と知り合いになっていたものであろう。」

「ロドリゲス氏は、おそらくその鋭く、かつ大きな、しかもあたたかさを欠かぬ大きな眼を細めて、このアラゴンの平民画家の生き急ぎを見ていたものであったろう。彼は一四歳のときから、もうマドリードの新王宮建築の現場に加わっていたというから、・・・。おそらく代々建築家の血筋であったのであろう。
さらに、フロリダプランカ伯爵自身をも取締役の一員としてもつ、サン・カルロス銀行もまたこのロドリゲス氏の設計及び監督になるものであった。
頭取のトロローサ侯爵をはじめとして、重役たちが続々としてゴヤの画布の前に立つことになる。」

「また、ヨーロッパにおける、いわゆるロココ美術の一典型である『ボンテーホス侯爵夫人像』のモデルが、前記フロリダプランカ伯爵の弟の夫人、つまりは伯爵の義妹であるとなれば、ゴヤのマドリード貴族社会攻撃の戦略戦術の、裏側での采配がこれまで誰によってとられていたかを物語るであろう。」

ここまでくれば、ゴヤは一人立ちをしなければならない
「そうしてここまで来れば、布石、布陣はもう大体完成しているのであって、ゴヤは一人立ちをしなければならないし、また事実、一人立ちをして貴族社会からの注文を自らさばいて行くことになる。」

『ボンテーホス侯爵夫人像』(1786年)
「私は、ここで(*『オスーナ公爵夫人像』との)順序を逆にして、『ボンテーホス侯爵夫人像』から語りはじめたいと思う。それというのも、ヨーロッパにおけるロココ芸術というものについて、少しだけ触れておきたいからである。」

ゴヤとロココ?
「・・・ゴヤとロココ、などと言うと、それはまったくゴヤにふさわしからぬ言い分だと言う人が必ずある筈である。
・・・。われわれの芸術家は、ここでもあくことなき海千山千であった、必要とあれば急転回をしてメングス流の優雅さへ遠慮会釈なく戻って行くのである。」

何分にも人々はまだ、服飾の世紀であった一八世紀末にいるのである
「この夫人の衣裳は、これは大変なものである。人によっては、絹とレースとリボンの化け物と言うかもしれない。今日ではアフロ・スタイルとでも言われるかもしれない髪型のカツラに、薄黄色の大きな帽子をかぶり、この帽子にも白い絹のリボンが一つならずついている。褐色に近い色のカツラの下から下端をカールさせた本物の髪の毛が首筋に垂れ下っている。頭と首の周辺だけでも大変な手数がかかっている。
それから問題の衣裳である。
胸は、なんとも言い様のないほどに複雑な編み方をしたレースと、レースだけでは足りなくて花飾りまでがついたもので蔽われ、銀灰色のドレスそのものは、腰のところでバラ色のサッシュできゅっと締めつけられている。そうして腰からの下半身。これがまたおそろしく入組んだ襞がついていて、襞ごとに白銀色のリボン、あるいは襞飾りのフリルと花飾りがついている。しかしそれだけではまだ足りなくて、膝下からは薄い絹のスカートが足首まで垂れ下っている。」

「豪勢なものだ、と言えばよいか。何分にも人々はまだ、服飾の世紀であった一八世紀末にいるのである。一九世紀以降、産業革命と近代戦争は、人間から服飾というものを奪ってしまったのである。」

人工的、それがロココということである
「背景は、人工的な、われわれの大正時代の写真館にそなえつけてあったような森と緑地、ということになっている。人工的、それがロココということである。ここで、緑の背景によって、真珠色とでも言いたくなるような銀灰色の衣裳と、バラ色のサッシュを見事に生かしている技術は、やはり抜群のものと言わなければならないであろう。
それから前景には、こましゃくれたチン(犬)がいて、こいつが銀の鈴を三つもつけている。」

要するにこれは人物画というよりは、むしろ服飾画なのである
「要するにこれは人物画というよりは、むしろ服飾画なのである。侯爵夫人の眼は、この人物が内容からっばの女であることを物語ってはいまいか。」

ゴヤの肖像画は人間論であり、人物論であると同時に、歴史のための二つなきドキュメントでもありうる
「それは人類というものが、いったい何をするか、どういうことをしでかすか、という人間論の一半である。自分を絹とレースとリボン、襞飾り(フリル)のお化けのようなものにして得意がるのもまた人間論の一部である。社会的にこれを見れば、それは階級間題であるよりも先に、いわばカーストが存在したことを物語るものであり、経済的に見れば、絹はリヨン、あるいは北イタリア、ファッションはパリ、レースもまたフランスであり、彼らの乗る馬車は英国製である。そうして政治的に見れば、すでにフランス革命、バスティーユ攻撃はもう目睫の間に迫っているのである。貴族カーストが存在したことは、フランス革命と同時に打ち出された人権宣言が、逆にそれを証明するであろう。」

「ゴヤの肖像画は、とてもいちいちの作品に言及などしてはいられないほどの数にのぼるのであるが、それは人間論であり、人物論であると同時に、歴史のための二つなきドキュメントでもありうる。」

ゴヤ『オスーナ公爵夫人像』(1785)
「この三三歳の公尉夫人は、これまたレースと絹とリボンと花飾りのお化けである。巨大な帽子の上にはバラ色の大きなリボンと白い羽毛がのっており、髪は北斎の描いた波のようなふうに結髪されている。首から胸にかけて値段も知れぬこまかいレースに蔽われ、そのレース飾りと藍色に輝く服そのものの結び目、あるいはキーポイントにも大きなリボンが結んである。七分の袖と白の長い手套とは、これもレースで出会う仕掛けになっている。両脇の腰から裾へかけての造花による花飾りなども華麗をきわめている。」

「・・・オスーナ公爵夫人は、只者ではなかった。マドリードの、少くとも貴族社会を無智蒙昧から、貴族の女が字も読めないといった状態から救い出そうと、それなりの努力はしたのである。彼女の夫の公爵も、フランスに多くの留学生を送って、技術や経営管理などのことを学ばせていたものであった。そうして夫人の方は、フランス風のサロンをひらいて、書簡文学や詩の朗読、音楽の演奏や気の利いた、開明な会話の奨励などにつとめていた。・・・
彼女はまた、王立経済協会の女性部長でさえあった。しかも彼女は、もう一人の大公爵夫人とは違って、当時のマドリードの貴族社会に大びらに忍び込んでいた、下層社会趣味、あるいは下賎趣味とでも言いたくなるような風潮には浸されず、自らマハ(伊達女)のような恰好をしてみせるといったことがなかった。
ゴヤの手になる公爵夫人像は、まことに、彼女自身のひらいた夜会からいま出て来たばかりといった生気をたたえている。」

「多くの文学者や画家、音楽家、建築家などが彼女の庇護をうけたものであった。ゴヤも、言うまでもなくその一人であり、かつ長きにわたって最大の庇護者であり、注文主でもあった。一七八五年から九九年までの間に、ゴヤは三〇点にわたる注文をうけている。そのなかには、この夫人像から夫の肖像、家族図、子供たちの肖像もあり、マドリード近郊のアラメーダの別邸の装飾用風俗画、さらには後に言及する筈の、バレンシアにある公爵家用の教会に聖フランシスコ・デ・ポルハ(ボルジア)の劇的な大画面もが含まれている。
なお、ついでに、というふうにして言っておけば、一八九六年にこのオスーナ公爵家がそのコレクションを売りに出したことが多くのゴヤの作品の、全欧米的な離散を招いたものとなった。」
*
*

0 件のコメント: