北の丸公園 2015-06-17
*『冬扇記』執筆に対して《感興もいつか消散したり。》と記した前日、荷風は『日乗』に《夜浅草公園散歩。曲馬を看る。》と書き、翌日の記事として《銀座不二地下室に飯して後今宵もまた浅草に往きオペラ館の演技を看る。余浅草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。(略)丸の内にて不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。》とのべている。前掲の数字をみても明らかなように、九月以後吉原がよいの頻度が急速に低下しているいっぽう、浅草行は九月6、十月9、十一月14と漸増して、十二月には実に26という驚異的な数字をしめしている。十二月に二十六回といえば、一カ月三十一日間のうち五日間欠かしたのみということになる。
玉の井がよいには『濹東綺譚』の取材、吉原がよいには『冬扇記』の背景探訪という目的があった。そして、連日の銀座がよいについては、荷風自身、十一年三月十七日の『日乗』に自宅附近のことを記したのにことよせて、次のように自解している。
《飛行機ラヂオ小児の声さはがしく、雀も今は稀に見るほどの汚き町になりたるに、鶯のみ年々こゝに来りて囀るは如何なる故ならん。唯来馴れたるが故といふにや、他に行くべき処もなきまゝせむ方なく来るといふにや。若し然りとなさば我身のいやいやながら東京に住み、日々散歩すべき処なきまゝ銀座に往く境涯に似たりといふべし。》
が、銀座には特定の溜り場がさだめられていて、そこへ行けば誰かに逢えた。逢えぬまでも、銀座には日々の食料品を買出しに行く必要があった。が、浅草には知人もなく、行かぬばならぬ必然はなかった。しかし、ひとたび執着した彼は、対象のなかへいよいよのめりこんでいく。十二年十一月十五日以後の彼の行動は、偏執の一語に尽きる。
同月十七日には《万歳小屋》、十八日には《浅草公園興行物を巡見》、十九日には《オペラ館の新曲を聴く。》、二十日には《松喜に飯す。》、二十一日には《国際劇場》、二十三日には《万成座》、二十四日にも《万成座》、二十五日は《今半に飯し》、二十八日には《浅草公園裏の待合お駒》、三十日には《オペラ館》といった調子で、十二月に入っても、ジャポンというカフェーに立ち寄りはじめた以外あまり変化がない。つけくわえておけば《松喜》も《今半》も牛屋だから、いかに荷風が肉食好きであったか、その一端が、このへんからもうかがわれるだろう。
そして、年があらたまったばかりの十三年一月八日の『日乗』には、《晴れて風甚寒し。晡下土州橋病院に行き浅草オペラ館立見。今半に飯してかへる。》という記述のあとに、まったく突然《燈下短篇小説おもかげ脱稿。》と記されている。『日乗』だけをみるかぎり、それはまったく思いがけぬ記事ということになるのだが、『おもかげ』そのものを読んでみれば、憑かれたような吉原がよいのあとに浅草の興行物 - 特にオペラ館見物が続いたことによって、読者はこの作品が成立した事情に想到するはずである。
《新吉原揚屋町の門際にある番屋から、夜番の男が出て、その扉に揚屋町と刻ってある鉄の門をしめた。廓内は今しも大引の二時になったのである。
閉められた門の外は龍泉寺町の道路である。片側は幾町となく立続く女郎屋の建物の裏側で、その板バメや裏口、または窓の下に沿ひ、左の方、京町一丁目の門外へかけては、葭簀(よしず)囲ひの屋台店が暖簾と提灯とをつらね、右の方、江戸町一丁日の門外へかけては辻自動車が幾輌となく夜通し客得をしてゐる。
牛飯屋の屋台から、掌で口の端をふきふき出て来た二人のわかい運転手がある。》
これが『おもかげ』の書き出しの部分で、この二人の運転手のうちのひとりである豊と呼ばれる男が主人公である。
・・・右にかかげた作品(『おもかげ』)の冒頭部分と『日乗』における十二年六月二十四日の《水道尻にて車を下り創作執筆に必要なる西河岸小格子の光景を撮影》という一節とのかかわりから明らかにしていきたい。
げんざいの吉原は、台東区千束三丁目と四丁目の一部に地名変更されてしまっている・・・。・・・都バスに乗って、今もその名だけとどめている大門前で下車・・・。・・・見返り柳に相当する柳の若樹が枝をたれていて、その柳の樹の前にあるガソリンスタンドについて左へまがると間もなく大門に行き着く。そこまでの道路を五十間(または衣紋坂)といって、戦前には両側に引手茶屋が軒をつらねていた地帯である。・・・。
そこから先の、見返り柳よりさらに貧弱な柳並木のつらなっている自動車道路の両側がもと妓楼の櫛比(しつひ)していた吉原遊廓で、柳並木の自動庫道路そのものが旧遊廓のメイン・ストリートであった仲之町の址である。・・・
その仲之町通りを中央にはさんで、左右にやや大きくひろがりながら長方形をかたちづくっていた吉原遊廓は、大門のほうからいけばいちばん手前の右側の通りが江戸町一丁目、左側が同二丁目、次の右側が揚屋町、左側が角町、その次の右手が京町一丁目、左手が同二丁目と六分されていて、仲之町の突き当りを水道尻といった。その水道尻の廓外にはいま台東病院、吉原電話局、吉原弁財天があって、台東病院はもと吉原病院 - 戦後は狩り込みに遭ったパンパンが病気を発見されると収容された病院で、戦前の娼妓の検徽所の跡である。また、吉原弁財天のある場所には戦後まで花園池がのこっていたが、その池は大正十二年の関東大震災のとき、逃亡をふせぐため最後まで廓内にとじこめられていた娼妓が火災に逃げおくれて次々ととびこんで何百人もの死者を出した池であり、いまそこには高く積みあげた火山岩かと思われる黒っぼい岩石の上に青銅の弁天像を祀った「大震火災 殃死者追悼記念碑」が建っている。・・・
また、正式名称は大下水、俗に鉄漿溝(おはぐろどぶ)とよばれていた下水道は、遊廓の四方をぐるりと取りかこんでいた九尺幅の溝渠で、遊女の使ったおはぐろの水を捨てたのがその名の起りだともいい、一朝事ある時には廓を城に転用する目的の堀であったという説もあるが、西原柳雨の『川柳吉原志』にも《おはぐろは外、泥水は内にあり》という文化年代の句がみられるほどだから、江戸時代から鉄漿のように真黒な水がよどんでいた水溜りではなかったのだろうか。その溝がもとの千束町 - つまり浅草側に面しているあたりを羅生門河岸、反対側の裏手 - 龍泉寺町に面しているほうを西河岸とよんだ。
・・・もういちど説明しなおすと、《水道尻》は大門のほうからいって突き当りの一帯、《西河岸》は右手の端れ一帯にあたる。
樋口一葉の『たけくらべ』には《お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎ》とあるが、《昭和十四年十一月七日誌》と文末に記されている木村荘八の画文『ハネバシ考』(『随筆風俗帖』所収)をみると鉄奨溝はすでになくなっていて、《コンクリートですっかり埋めてある。》と記されている。昭和初年代に、はじめて廓内へ足を踏み入れた私もむろん知らない。つまり、その時分には埋め立てられて道路の一部と化してしまっていたわけである。その遺蹟というか、当時の石垣のほんの一部分がいまものこっているのは、大門から行って松葉屋の手前を右に曲ると左側に小公園があって、そのすこし先の一小区劃だけである。
・・・、『おもかげ』のオープニング・シーンは、その西河岸と揚屋町の道筋が直角に結び合った地点に相当する・・・
麻 布タキシイでハイヤーの運転手をしていた豊は、外国大使の二号宅からの名指しで夫人の送迎をしているうちに、その家の小間使に惹かれて恋愛結婚をするが、三ヵ月ほどで食中毒のために急死きれてしまう。そして、タクシーの運転手に転じたある日、浅草へ客を乗せていって《池の縁にある歌劇館》をのぞくと、踊子のなかに死んだ恋女房とそっくりな一人をみつける。《池》は瓢箪池だから、その《縁》の《歌劇館》は当然オペラ館である。豊はそれから萩野露子というその踊子の舞台姿をみるために通いつめ、あるとき道を歩いている露子の姿を追って飲食店へ入ると自身の袖口に血がにじんでいて、スリに時計と金を取られていたことに気がつく。そのため、二人の仲間とともにほんのわずかロをきく結果になるが、さらにしばらくのち客を野田まで乗せていった帰途、松戸あたりで二人の女客をひろうと、それがいつぞやの露子の仲間で、もともと病身だった露子は死期がせまっていて見舞にいった帰りだときかされる。
『おもかげ』は、そんな内容の話を深夜の揚足町の鉄門のあたりで豊が友人の為を相手に語りきかせるという筋立のよくまとまった好短篇だが、こんな短篇の背景ですら、今日では容易に把握しがたくなっている。風俗小説の宿命のひとつだろう。"
《全国の舞踏場が閉鎖せられるとかいふ噂をきいて、ふと思出したことがある。月日のたつのは早い。たしか霞ヶ関三年坂のお屋敷で、白昼に人が殺された事のあった年であつたと思ふので、もう七八年前のことになる。その時分から際立つて世の中の変り出したことは、折々路傍の電信柱や、橋の欄干などに貼り出される宣伝の文字を見ても、満更わからない訳ではなかったものゝ、然しまだまだその時分には、市中到るところに、恋のサイレンだの。君恋し。なんどと云ふ流行唄が、夜のふけわたる頃まで絶間なくひゞき渡つてゐたくらゐなので、いかに世の中が変らうとも、女の髪の形や着るものにまで、厳しいお触が出やうとは、誰一人予想するものはなかった。》
これは『おもかげ』と同年に書かれた短篇『女中のはなし』の冒頭で、作品はやとい入れた女中が不在がちな独身の主人(荷風)の留守中に連夜家をあけてダンスの教習所へかよい、置手紙をして去ったのちにもまた訪ねてきたことがあるという内容のものである。随筆風の筆致ながら捨てがたい味のある短篇で、荷風はさりげなく時代風俗の変遷をえがいては、さすがに第一人者だと思わせるものをもっている。"
ダンスホールの閉鎖が実施されたのは昭和十五年十一月一日で、・・・、巷間にはそれより早くから閉鎖が取沙汰されていて、『断腸亭日乗』十二年十二月二十九日の条には《この日夕刊紙上に全国ダンシングホール明春四月限閉止の令出づ。目下踊子全国にて弐千余人ありと云ふ。この次はカフエー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。可恐々々》と記載されている。
『女中のはなし』は、その報道に触発されて執筆したものとみてまちがいあるまいが、《霞ケ関三年坂のお屋敷で、白昼に人が殺された事》とは昭和七年五月十五日に首相官邸で、犬養毅が海軍将校に拳銃で射殺された五・一五事件であり、それを機に日本がファシズムへの道を進みはじめたことは歴史書の記すとおりなので、《その時分から際立って世の中の変り出したこと》は、その時代に生きた者なら誰もが膚で感じさせられたところであった。
しかし、《流行唄が、夜のふけわたる頃まで絶間なくひゞき渡ってゐた》ことも事実で、日華戦争の末期から太平洋戦争中にくらべれば、市井にはまだたしかに華美で浮薄な風潮がみなぎっていた。いまからおもえば上海あたりの芸人を寄せ集めて釆たかと考えられるふしもあるが、白人の美女の半裸を売りものとしたマーカス・ショウというレヴュー一座が日劇に出演して、私たちの世代の血を沸かせたのも昭和九年三月のことである。
十二年の十一月から荷風の浅草がよいがはじまったことについてはすでにのべたが、つづいて昭和十三年上半期の行動を例によって数字にしめしてみよう。・・・
十三年 一月=玉3。浅15。吉1。
二月=玉3。浅13。吉0。
三月=玉3。浅16。吉1。
四月=玉1。浅22。吉4。
五月=玉1。浅30、吉0.
六月=玉0。浅23。吉0。"
・・・四月以後の驚歎すべき浅草行の頻度は自作の歌劇『葛飾情話』のオペラ館上演に強くかかわっている。『日乗』十三年一月六日の条に《是日オペラ館文芸部員川上典夫氏の書に接す。直に返書を送る。》とあるのは、荷風が十二年十二月二十五、二十八、二十九日の「読売新聞」夕刊に発表した『浅草公園の興行物を見て』という一文の反響と思われるが、一月二十六日の条には《初更過浅草公園に至りオペラ館に其作者川上氏を訪ひしが不在なり。》とあり、二月二十七日には《午後川上典夫来り話す。誘はれて浅草に至りカツフエージャポンに飲む。夜十一時川上と共にオペラ館の舞台稽古を見る。》とあるような経過をたどって三月五日から楽屋にもおとずれるようになり、八日には《浅草公園を背景となす小説の腹案稍成れるが如き心地す。》ということになる。そして、同月十六日には早くも《燈下歌劇台本葛飾情話執筆暁明に至る。》とあり、十九日には《燈下葛飾情話の稿成る。》という記載がみられるに至る。
菅原明朗作曲の『葛飾情話』は五月十七日を初日として昼夜三回、十日間オペラ館で興行された。菅原明朗は慶応義塾のカレジソング『丘の上』の作曲者で、荷風とは戦時中には偏奇館焼亡の結果中野の彼のアパートに身を寄せたり、さらに岡山疎開にも同行するほどの仲となった。
『断腸亭日乗』十二年の記載にもどると、日華戦争開戦直後の八月二十四日には《余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものゝ如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり。》とあり、十一月十九日には《東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるゝなり。戦争もお祭さわざの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものゝ如し。》とあって、十三年一月二日には《去年あたりより浅草の繁華殊に著しくなりしが如し。》と、今からみれば意外の感すらあるかと思われる市井の所見をつたえている。
が、その《繁華》の蔭にも、やはり来るべきものは忍び足で近づきつつあった。同年七月十日には、《この夜もふけわたるまで鬼灯(ホオヅキ)市にぎやかなれば踊子四五人と共に観音堂に賽し、ハトヤ喫茶店に憩ふ。公園内外の飲食店夜十二時限り閉店の厳命下りし由。また百貨店其他中元売出しの広告を禁ぜられしと云ふ。いよいよ天保改革当時の如き世とはなれり。》と記載されている。
『葛飾情話』は「新喜劇」という小雑誌に掲載されたのち、岩波書店版の「おもかげ」におさめられたが、戦前に公表された荷風の最後の作品となった。
かくして、荷風の作家的地下生活がはじまる。
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