江戸城(皇居)東御苑 2015-06-16
*嘉承3/天仁元年(1108)
この年
・伊賀国六ケ山をめぐる伊勢神宮・興福寺末寺伝法院間争論
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・ロンドン公会議、聖職者独身制を更新。
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・フランス王フィリップ1世(57)、没(位 1060~1108)。
息子ルイ6世、後継(肥満王、不眠のルイ、戦争好きのルイ、位1108~1137)。
フィリップ1世愛人アンジュー伯フルク4世ル・レシャンの3番目の妻ベルトラード・ド・モンフォール、創立(1100年)直後のフォントヴロー修道院に隠遁。
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・マルデブルクの訴え。
フランドルの聖職者が全ヨーロッパのキリスト教徒に訴え。エルサレムと同様、バルト・スラブ地域も異教徒から奪回(征服、植民)すべき。
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1月
・この年の正月除目(幼帝鳥羽の践詐後はじめての除目)では、白河法皇の近習の多くが熟国(じゆつこく、播磨、伊予など生産力の高い国)の受領(現地へ下る国司の最上級者。地方長官)に任じられる。叙位・除目に院が介入し、朝廷の人事権を院が掌握する。
藤原宗忠(むねただ、通称、中御門右大臣)の日記『中右記』(10月)に、「今太上天皇の威儀を思ふに、已(すで)に人主(じんしゆ)に同じ。就中、我が上皇已に専政主也」と記す。
上皇(白河法皇)の権威が、すでに国王である天皇に等しい、或はそれ以上の専制君主の域に達しているという。
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1月6日
・源義親追討事件。
平正盛、一族(子の盛康・盛長)・郎等・山陰道5ヶ国の兵を動員して源義親(義家次男、為義の父)を追討のため出雲へ出発し、この日、出雲に到着。義親・従類5人の首級をあげる。
19日、追討の報が白河院に届き、院は正盛の帰還をまたず勧賞を行い、正盛を但馬守に抜擢(盛康は右衛門尉、盛長は左衛門尉)。
29日、源義親の首級を持って京に凱旋。
中御門宗忠、源義家を「年来武者の長者として多く無罪の人を殺す」と評し、最下品の正盛が第一国の但馬に任じられることを世人は納得していないと記し、それは「白河院の寵によるもの」と喝破(「中右記」)。
前年末:嘉承2年(1107)12月19日、正盛は京都を出発し、翌年正月6日に出雲に到着。19日には、義親とその従類討減の報が京都に届く。
義親追討軍は、正盛自身の私兵と、出雲・因幡および近隣諸国の国司が編成した国衙軍制の発動によるものからなっていた。当時の国衙軍制は、国守の私的従者、国衙の在庁官人、国衙に日常的に組織された国内の中小武士団からなる国司軍、有事の際の要請に応じて国司軍に合流する半独立的な地方豪族軍などから成り立っていた。朝廷の追討宣旨は、これらの国衙軍制を、一時的に追討使の指揮下に入れることを意味しており、正盛の迅速な義親追討は、この時期の山陰諸国において、国衙軍制が有効に機能していたことを示している。
29日、正盛は、鉾にさした義親の首級を先頭にして京都に凱旋。それに先立つ24日、正盛は追討の恩賞として、因幡守から但馬守に遷任されている。
『中右記』は、「彼身(かのみ)いまだ上洛せずと雖も、まずこの賞あるなり。くだんの賞しかるべしと雖も、正盛は最下品(さいげほん)の者。第一国に任ぜらるるは、殊寵によるものか。およそ左右を陳(の)ぶべからず。院の北辺に候ずる人、天の幸ひを与ふる人か」(『中右記』)と記す。
正盛は白河院の「殊寵」によって、京武者の第一人者に躍り出たことになる。
「今日但馬守正盛、身に源義親の首を携えて入洛す。・・・鳥羽作路辺にて窺い見るに、桙にさしたる首、下人五人に持たしめ、・・・その左右には打物をとる歩兵、甲冑を着する者四五十人ばかりを相従う。次に但馬守正盛・・・次に郎等百人許、剣戟日に輝き、弓馬道に連なる。・・・見物の上下、車馬道をさしはさみ、およそ京中の男女、道路に盈ち満つ。人々狂うが如し」(「中右記」1月29日条)。
一方、源氏の方は、義親が討たれたこの翌年(天仁2年(1109))、その弟の義忠が殺され、容疑をかけられた義忠の従兄弟の義明(義綱の三男)が討たれる。これに怒った義綱が近江に出奔すると、義親の子の為義(14歳)がこれを追捕(義綱は配流先の佐渡で暗殺される)。この功によって為義は左衛門尉に任じられる。
この時期の源氏衰退の背景には、為義に義綱を追捕させるなど、源氏の内紛を助長させる院の策謀があったとみる傾向があるが、反対に、謀反人義親の子の為義に勲功をあげさせ、名将義家の養子として復活させることにより、源氏の瓦解を免れさせたという説もある。
『愚管抄』によれば、白河法皇は皇位を巡って争う輔仁親王一派の襲撃に備えて、「光信・為義・保清(やすきよ)三人ノケビイシ」に鳥羽天皇を守護させたという。院も当初は、為義を側近の武力として重視していた。
平氏の成功は、武力による奉仕だけでなく、造寺・造塔をはじめとする経済的奉仕にも余念がなかったからである。
ところが源氏は、義家の金滞納をはじめとして、そのような奉仕ができなかった。しかも、為義は、郎等を処罰せず・むしろかばうことが多く、殺人犯である他人の邸等を奪おうとして合戦におよぶのも辞さない。そのような粗暴な行動が、貴族たちの警戒心を生むのである。
平氏が院政の秩序に同化されたのに対して、源氏は武士団の主従結合を堅固に守ろうとして、非社会的集団化したため、院や貴族の顰蹙をかい、結果的に栄達を阻まれたというのが、上横手氏の見解である。
当時の武士は、源氏でも平氏でも、院の権力を脅かす可能性など皆無であると、貴族社会では考えられていた。院や貴族によって、彼らが抑圧されるはずがなかったのである。それどころか院は、寺社の強訴や騒乱、地方の反乱に備えて、それら軍事貴族の勢力を拡大させうおうとしていた。
そのような院の要請に応えたのが平正盛であり、その子忠盛であった。逆に、院の期待にそうことができなかったのが、義家、義親、そして為義ら、清和源氏(とりわけ河内源氏) の一党であった。
3週間余で猛将義親を討つのは余りに鮮やかすぎ、帰還を待たずに勧賞を行う白河院の性急さも不自然。
一連の騒動は、正盛を売り出すための白河院の演出との説が有力。
後20年以上に渡り義親生存説が囁かれ、義親を名乗る人物が度々現れる。
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1月24日
・伯耆守高階為遠、尾張守に遷任。
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3月5日
・太宰府管内の神人、蜂起。
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下旬
・トリポリのカーディー、ファルク・アル・ムルク、フランクによるトリポリ包囲強化打開のための軍派遣要請をスルタンに直訴するため、バクダードに向う。スルタン・ムハンマドはモースル問題を優先し、モースルに軍を派遣した後、トリポリに向わせると回答。4ヶ月後、ファルク・アル・ムルクはトリポリに戻るが、この時点では既にトリポリは陥落。
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4月1日
・源平両氏、命により延暦寺衆徒の入京を防衛。源平2氏並ぶ。
「大衆等、日吉神輿をかつぎ、西坂本を発向す。神人・衆徒数千人群れ集まる。爰に又相禦がんがため、公家の指し遣わすところの検非違使ならびに源氏平氏、天下弓兵の士、武勇の輩数万人、法成寺東河原より松前辺に及ぶまで、陣を引き党を結びて相守る」(「中右記」同日条)。
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5月
・カスティーリャ王国の危機。
ムラービト朝タミーム(アミールのアリ・イブン・ユースフ兄弟、グラナーダを拠点にスペインを統治)、ウクレスを攻略。
カスティーリャ王アルフォンソ6世息子サンチョの援軍7千、壊滅的敗北(サンチョとサンチョを傅育したガルシーア・オルドーニェス伯を含む伯7人が戦死)。
間もなく、1090年サイーダが婚資として持ってきた城が全てムラービト朝の手に落ち、トレードの東と南がむき出しとなる。
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・ムラービト朝、エル・パナデス地方(バルセローナ~タラゴーサ)の至るどころを襲撃。
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7月21日
・~9月、浅間山噴火。火砕流と溶岩流が田圃を埋める。下野国西部、上野国中央部、火山灰で覆われ、田畑が壊滅的な被害。
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8月
・カーディ不在のトリポリ要人、エジプトのアル・アフダルにトリポリを委ねる。
アル・アフダル軍は、トリポリに着くや、ファルク・アル・ムルクの家族・同士を逮捕、彼の所有物全てをエジプトに送る。
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8月3日
・「天仁」に改元。
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9月10日
・興福寺僧徒、多武峯の堂舎などを焼く。
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10月
・久我雅実の次男・雅定、藤原顕季の娘を娶る。
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「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主(にんしゆ)に同じ。就中、我が上皇已に専政主也」(藤原宗忠『中右記』)。上皇(白河法皇)の権威が、すでに国王である天皇に等しく、あるいはそれ以上の専制君主の域に達しているという。
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初旬
・テル・バーシルの戦い(奇妙なエピソード)。
アンティオキアのタンクレードとアレッポのリドワーンが派遣したトルコ兵が連合。
対するに、モースル領主ジャワリとエデッサのボードワンの従兄弟テル・バーシルのジョスランが連合。タンクレードがボードワン抑留中にエデッサを奪取したため、この構図となる。
結果、タンクレードが勝利し栄光の頂点に達する。
数週間後、ダマスカス王国とエルサレムの休戦条約。両者の間の土地の収穫をダマスカス、エルサレム、農民に3分。更に、数週間後、新たな条約。ベカー高原をダマスカス、エルサレムで分割。
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