2016-03-26 新宿御苑
*應永17(1410)年
この年
・イングランド内は対仏和平策の親ブルゴーニュ派と対仏積極策の王太子派に分裂の兆し
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・プラハ大司教ツビニェック、ウィリクフ教説の本を強制的に集め、焼き捨て、ピサ派教皇アレクサンダー5世に使節を派遣し、ヤン=フスがこれらの運動の先頭に立っていると指摘。
大司教の報告から教皇は枢機卿オットー=コロンナをチェコに派遣。
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・ドイツ、ディートリヒ・フォン・ニーハイム、「公会議における教会の統一と改革の方策」。教皇の絶対権力を批判。
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・シチリア王マルティーノ2世、没。父マルテイーノ1世、再度即位。1410年に没。
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・プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(75)、没(1335~1410)。アヴィニョン、プラート、フィレンツェの本拠地の会社より、全欧州の配下スタッフ・支店網・通信員を駆使し信用手形を用いて迅速に資本を移動。
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・イングランド、ヘンリ4世と太子ヘンリ、対フランス政策で対立。
ヘンリ4世は和平策。太子ヘンリは親ブルゴーニュで対仏積極策主張。
(破局に至らぬうちに、1413年3月ヘンリ4世没。)
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・アラゴン王マルティーノ1世(マルチン)、没(位1395~1410)。
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1月21日
・那須山噴火。180余人埋没。牛馬の死多数。天鳴ること雷声の如し。
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1月27日
・イングランド、議会開会、ロラード議員、教会領収公を提案。
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3月15日
・[明・永楽8年2月10日]永楽帝、タタール征伐のため自ら大軍を率いて出陣
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4月
・カスティーリャ王太子フェルナンド、アンテケーラ包囲。
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4月15日
・オルレアン党派(アルマニャック派)を結成(ジャンで条約締結)
フランス、オルレアン公シャルル(シャルル・ドルレアン)、反ブルゴーニュ諸侯と協定。アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公、ブルボン公、クレルモン伯、アランソン伯等。
9月、オルレアン公シャルル(16)、アルマニャック伯ボンヌ娘と再婚。
オルレアン派とブルゴーニュ派との戦争に突入。
(ブルゴーニュ派;パリで、国王を押さえ2万5千。アルマニャック派ブールジュ(ロワール川中流)に2万の軍隊が対峙、アルマニャック派、パリに向け進軍。 )
国王をめぐる親族諸侯の対立。
一方は、フランス東部の本領から、イギリスとの利害関係の深い王国外の北方ネーデルランドに領土を持つブルゴーニュ公の派。
他方はオルレアン公を中心とするフランスの諸侯で、武力の中心となった人物の名からアルマニャック派とよばれる。
両派は、両公家の主の暗殺を含め、首都の市民も巻き込んで激しい争いを展開。
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5月2日
・プラハ大司教ツビニェック、プラハ市会に「破門」を宣告。
市会は無視。プラハ市全体に「インターディクト」が宣言、国王もプラハ市も無視。教会領の没収、高位聖職者の監禁を続ける。
7月、大司教は、ウィクリフの著作を焼却処分にし、ジギスムントを頼りにハンガリーへ逃亡、その途中1411年9月プレスブルクで没。
大司教は、避難先ロウドニツェで、焼却に反対したフスおよびその仲間に破門。
フスの問題は教皇庁に持ち込まれ、破門は枢機卿コロンナによって確認される。
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5月3日
・ピサ派教皇アレクサンデル5世、没。ボローニャ枢機卿バルダサーレ・コッサ(次の教皇ヨハネス23世)の館で毒殺。ピサ公会議で選出されてから10ヶ月と7日後。
ヨハンネス23世、即位(位1410~1415)。亡命中のナポリ・シチリア王ルイ・ダンジュー2世軍を使い、ティスラスを破りローマ入城。1413年ジョヴァンニ・デ・メディチに、教皇庁の両替業務を独占させる(メディチ家総収益の半分近くがローマからあがる)。
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5月7日
・斯波義将(61)、病没。室町幕府の重鎮(三度管領を努める)。
6月、孫の斯波義淳、管領職解任。義将晩年の斯波氏による支配体制の布石失敗に終る。
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5月18日
・神聖ローマ皇帝ルプレヒト(58)、没(1352~1410)。ヴィッテルスバッハ家。
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5月31日
・アラゴン王マルティネス1世、没。王位継承戦争始まる
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5月31日
・ヴェネツィア、高潮
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6月2日
・ヴェネツィア、ドージェと司法長官との対立
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6月22日
・ヴェネツィア、毒物は大きな香料店でのみ売ることができる
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7月2日
・ポーランド・リトアニア連合軍、ワルシャワ近くのツェルヴィンスクで合流し、この日、出発。最終目標はドイツ騎士修道会本拠地マリエンブルク。
9日、プロイセン領内に侵入、ドルヴェンツァ川のクルツェトニク対岸に布陣。既にドイツ騎士修道会(総長フォン・ユンキンゲン)も布陣。
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7月10日
・ポーランド王ヴワディスワフ2世、全軍を東へ迂回させドイツ騎士修道会軍の要塞ドブロブノを陥落。ドイツ騎士修道会はドルヴェンツァ川を渡り小村グルンヴァルトとタンネンベルクに進行。
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7月15日
・グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い。中世最大の戦い。
ポーランド王ヤギェウェオ指揮ポーランド・リトアニア・ルーシ連合軍(3~5万、うち騎士は約2万超)、フォン・ユンギンゲン総長率いるドイツ騎士修道会軍(2万~2万5千、うち騎士は約1万5千)に大勝。総長フォン・ユンギンゲンと200人以上の修道騎士たち戦死。
以降、ドイツ騎士団の勢力衰えドイツの東方進出弱まる。
(1411年トルンの和約。ドイツ騎士団は、ポーランド王の外藩となる。)
バルト海から黒海に達する大国を作り上げ、リトアニア大公国の黄金時代を開く。
リトアニアは当時欧州の一大強国となる。
午前9時、両軍は戦闘準備完了するが正午まで戦闘始まらず。騎馬に不利な森林地帯に布陣したポーランド・リトアニア連合軍を平原に誘い出すため。
正午頃、ヴィタウスは前進して右翼を、ヴワディスワフ(前線指揮ツィンドラム)も前進して左翼を構成。
ドイツ騎士修道会が集中攻撃した右翼リトアニア軍が後退、逃亡する者もでるが、ロシア3旗団が奮戦。左翼ポーランド軍も後退。
ドイツ騎士修道会総長フォン・ユンキンゲン自身は左翼リトアニア軍に向うが、一団がリトアニア軍を突き抜けてポーランド国王軍に向う。
ドイツ騎士修道会騎士がヴワディスワフ国王に突進、国王秘書官ズビニューがこの騎士を倒す。
逃亡したリトアニア軍が戦場に戻り、ドイツ騎士修道会軍の背後を突き、ポーランド軍指揮官ツィンドラムが残りの予備軍全てをつぎ込み戦局は一変。
総長フォン・ユンキンゲン、幹部が戦死(管区長11人戦死、生残りは2名のみ)。シュレージェンのコンラート公、シュテッティンのカージミール公は捕虜。ドイツ騎士修道会戦死1万8千、捕虜1万4千。
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7月17日
・ポーランド・リトアニア連合軍、ドイツ騎士修道会本拠地マリエンブルクに向う。
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7月18日
・マリエンブルク防衛のドイツ騎士修道会シュベッツ管区長ハインリヒ・フォン・ヴラウエン、マリエンブルク到着。有効な防衛体制整う。
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7月22日
・鎌倉公方足利満兼(32)、没。
9月、幕府は満兼の子の足利持氏にあとを継がせる。執事は上杉朝宗から氏憲となる。
この時、新田嫡孫が謀反を起こし、廻文で軍勢を集めたため、鎌倉の侍所千葉介兼胤が生け捕りにして、七里浜でこれを討ち鎮定。また、満兼弟の満隆に陰謀の噂あり鎌倉中が騒然。
持氏は管領氏憲の山内の館に移る。上杉憲定が取り持ち、満隆が陳謝、平静になる。
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7月25日
・ポーランド・リトアニア連合軍、途中、3つの要塞陥落。
25日、マリエンブルク包囲。2ヶ月の篭城に耐える。リヴォニアの援軍が到着し、リトアニア・ポーランド連合軍は帰国。
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8月1日
・ヴェネツィア、暴風雨の急襲がメストレのサン・ロレンツォの大市に向かう商人のうち溺死者300。
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8月25日
・ヤン・フスのローマ召還、破門
ピサ派教皇アレクサンダー5世、チェコに派遣したコロンナの調査に基づき、プラハ大司教の行動を「適切な処置」と認め、ヤン=フスに対し「教皇庁」への出頭を求める。
ヤン=フスの身柄を案じた人々は彼単独のローマ行きを引き留め、フスの友人と神学者2人が代りに教皇庁へ赴く。
コロンナは代理を認めず、召喚の期限切れとなった時点で彼を「破門」とする。
ボヘミア王ヴァーツラフ4世、フスを保護。
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9月
・フスらを弁護する書簡、国王・王妃・ボヘミアとモラヴィアの大領主・プラハ城伯の名で、教皇・枢機卿団に送られる。
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9月20日
・ルクセンブルク家・ハンガリー王ジギスムント、神聖ローマ皇帝に選出。皇帝は帝国をオスマン・トルコから防衛するための組織として、ドラゴン騎士団を創設。
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9月26日
・カスティーリャ王太子フェルナンド、アンテケーラ占領。
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10月
・ドイツ、国王選挙分裂。
3国王並立状態(ハンガリー王ジギスムント、メーレン辺境伯ヨープスト、先王ヴェンツェル)。
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10月7日
・ヴェネツィア、ドージェと司法長官との不和
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10月22日
・ヴェネツィア、魔術を使ったものへの厳しい処置
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11月2日
・仏、ビセートルの和平協定。
オルレアン派(アルマニャック派)とブルゴーニュ派が和平締結。問題解決を国務会議に委ねる。
国務会議メンバーは両派以外からシャルル6世が任命。
パリ市長解任、新市長にブリュノー・ド・サン=クレールを任命。
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11月27日
・後南朝の始り
後亀山法皇、幕府の処遇に不満を抱き、吉野・賀名生に走る(1946/09帰洛)。
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