2016年3月21日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(93)「巨人の影に」(6) 「新しい、まったく新しい歴史がこの瞬間にはじまろうとしているのである。帝国の、正規の訓練をうけ、完璧に組織化された重武装の軍隊に対する、百姓どもの残酷無比な、いわゆるゲリラ戦争、Guerilla ゲリーリァの戦いがはじまる。」

横浜市 2016-03-21
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おのおのの”国民”は”国”というものを形成するに際して、あるいは形成しての後の歴史において、誰もが忘れることの出来ない、ある特定の目付けをもっている。・・・。
Dos de Mayo という重い音をもっている「五月の二日」は、近代スペイン人にとってはその血のなかに重く流れている目付けである。そうしてゴヤはこの血のなかの五月の二日と三日の事件を徹底して具体的に描いたことで、それだけでもスペインの国民画家 -・・・- と呼ばれうることになる。
それはたしかにその通りなのであるが、画家が『五月の二日』と『五月の三日』の大画面 -ともに266×345cm - を描くのは、六年後の一八一四年、すなわち血みどろの人民戦争による、怖るべき『戦争の惨禍』を経ての後のこと、フェルナンド七世が六年間の”亡命”生活を終えてマドリードに再臨する直前のことである。・・・。

スペインの公式の歴史や、多くのスペイン人のゴヤ研究者は、この五月二日の対ナポレオン軍暴動 - しかし、いかなるスペインの歴史もゴヤ研究者も決して、この”暴動”ということばを使わない。必ずや”蜂起”である、それは歴史の聖なる場所であって暴動などというのは瀆聖である - の原因をおよそ次のように説明する。
すなわち、ナポレオンが彼らの愛する王子を奪おうとしだからだ、というのである。
しかし事実は、それほど単純ではなかった。

すなわち、二日前の四月三〇日に将軍ミュラはバイヨンヌのカルロス四世から一通の手紙をうけとった。それには、まだマドリードにのこっている前エトルリア女王の称号をもっているマリア・ルイーサ・ホセーファと、一番年下の男の子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオ親王を大至急パイヨンヌへ寄越してもらいたい、としるしてあった。手紙はただちに政府に交付され、承認された。出発は二日後の五月二日と決定され、その日付けは極秘事項とすることになっていた。しかしマドリードは秘密の守れる町ではなかった。

五月一日は日曜日であった。ミュラ将軍の一行はある修道院へミサを聴きに行った(・・・)。そのミサの帰りに、将軍たちはプラド大通りへ出て軍の行進を閲兵するならわしになっていた。
五月のマドリードはお祭りの季節である。プラド大通りは多くの人出で賑わっていた。
けれども、群衆の様子がなんとなく変であった。いつもとは違うのである。そのうち、
「・・・・・・・」
という非難の口笛が吹かれた。この第一声につづいていくつかの鋭い口笛がやくざ、ごろつき風の男たちから・・・。
これが合図であった。
その前の日、スペイン人の家に宿を借りていた将校たちの多くが、明日は外出なさらぬ方がいいですよ、という警告をうけた。
アランホエース謀叛の場合と同様の根まわしがすでに行われていたのである。テバ伯爵の影が色濃く投げかけられた、黒い陰謀が進行している。

五月二日の朝八時半、三台の馬車が王宮前庭のアルメリア広場に並んだ。エトルリアの女王(・・・ナポレオンによってエトルリア王国から追い出されて実家へ帰っていたもの・・・)と親王をバイヨンヌヘお連れするためのものである。
八時半という時刻は、夜の遅い、ましてやお祭りの季節のマドリードの民衆にとっては、活動を開始するには早過ぎる時刻である。にもかかわらず、得体の知れぬ人々がどこからともなくあらわれ、次第に馬車めがけてにじり寄って来る。その人数が増えて来る。
しかも、この群衆を規制すべき王宮の衛兵があたりに一人もいなかった。・・・。
馬車は異様な群衆にとりまかれて、しかし、先に出て来たエトルリアの女王は、とにもかくにもさしさわりなく出発して行ったのである。

ついで、フランシスコ・デ・パウラ親王が出て来た。当年一四歳である。
と、そのとき異様なことが起った。親王について出て来た召使いたちが群衆のなかへ、ツイと入って行って、殿下は行きたくないと言って泣いておられる、と小声で言い触らした。煽動である。

増えつづける群衆のなかへ溶けた召使いたちが、力ずくでも親王をとり戻そう、とまで言ったとき、突然、女たちがとびかかって来て、ミュラ将軍が派遣していた馬上の副官に呪いのことばを投げつけ、男たちが殴りかかって来た。副官は馬から引きずりおろされた。副官の従兵がこの上官を守ろうとするのは当然である。もしこの従兵がいなかったら副官は殺されていたであろう。副官と従兵だけが立ち会っていたのは、出発を目立たぬものにするためであった。
・・・
親王は宮廷内へ逃げ帰った。

ミュラの副官と従兵は殴られ蹴られて地に仆れた。そこへ騒ぎを知ったフランス車の哨兵が襲撃用の歩調で駈けつけ、銃床をぶるって二人を助け出した。副官はほど遠からぬところにあったミュラ将軍の宿舎へ飛び込んで事態を報告した。報告などしなくても、顔の血と破かれ裂かれた衣服が一切を物語っていた。将軍としては、昨日はミサからの帰りに口笛を吹かれ、今日はこの有様である、頭に血がのぼった。
ミュラ将軍は軍略にはたけていたかもしれないが、陰謀には陰謀をもって対するという人ではなかった。何かというと大砲をぶっ放す。一七九五年一月五日に王党派が国民公会を襲撃したとき、大砲をぶっ放して撃退したのはほかならぬミュラであった。怒り狂ったミュラは、ナポレオンの厳重な訓戒を忘れてしまった。仕掛けられた罠のなかへ頭から突っ込んで行ってしまった。

宮殿前の広場へ、擲弾兵一大隊、ポーランド人猟歩兵一中隊、大砲二門が派適された。
群衆は声を限りに叫んでいる。
 - ! Muera Mourate, muera Napoladron y viva Fernando!
 - ムーラテ(ミュラ)を殺せ、ナポラドローン(ナポレオン)を殺せ、フェルナンド万歳!
これで事態ははっきりしたわけである。ミュラにとっても、また民衆自体にとっても。
なお、民衆がナポレオンをナポラドローンと言うのは、ナポ(Nape)のあとのラドロン(ladron)はスペイン語で泥棒という意で、従ってこの呼称はナポ泥棒ということになる。

群衆の数は一〇〇〇人をちょっと越すほどであったと言われる。なかにはアランホエース謀叛のときと同じく、郊外から駈り出されて来た農民もいた。
軍隊の姿を見て群衆はたじろいだ。大砲を向けられて人々は逃げ出した。

事実としてこの蜂起、あるいは暴動の初期には、擲弾兵が群衆の足許をめがけて手榴弾を投げ、歩兵は空中へ発砲したにとどまり、警告的なものにすぎなかった。だから午後四時頃まで続いた小競合いでの、王宮地区での死者は七人にすぎなかったのである。その職業も代言人一、従者一、水売り二、宿屋の召使い一、工員一、馬車屋一・・・。
事件がこれだけで終れば、屡々あった小競合いの少々大型のもの、ということですんだかもしれないのである。
やがて逃散して行った群衆の向う、その方角から軍隊が来た。エジプト騎兵、猟騎兵、近衛銃兵・・・。

この衝突で前記七人の死者が出た。しかし大砲をぶっ放したり、一斉掃射などが行われた形跡はない。
けれども、人の口には大砲でも蓋をすることは出来ない。
 - 王子を奪いに来たキャベツの芯(ミュラ)が女子供に大砲を射って何百人も殺したぞ!- キャベツの芯の奴めがマドリードをやっつけようとしている!
こうなれば、これはもはやミュラだの王子だのということではなくなる。市民の怒りは極点に達し、何でもよい武器を持て、ということになる。そうして合言葉は gavachos, franchutes  - フランス人の奴らを殺せ、である。この瞬間から煽動は全面的に成功し、マドリードは蜂起する。
町を歩いていたフランス人が傷つけられ、運び込まれた病院でトドメを刺されるということまでが起る。
小人数のフランス大部隊や孤立した兵たちが怖るべきやられ方での死を死ぬ。
騎兵隊が町じゅうを駈けまわりラッパで、あらゆるフランス兵とフランス人居留民に兵営への集合が命令される。午前一〇時半には、もはや街頭にフランス兵を見ることがなくなる。

しかしこうなれば、どの広場も通りもマドリード市民のものである。マハたち、マホたち、やくざ、ごろつき、鍛冶屋に、鋳掛け屋、錠前屋、車大工・・・、棍棒、鉄丸、短刀、長柄のトンカチ、ラッパ銃が街頭を制する。大砲だけがない。指導者が生れる。錠前屋ホセ・プラス・モリーナである。集合地点は、太陽の門広場。
- 王宮へ行ってゴドイの子を解放せよ!
それは政治的には何のことやら意味をなさない。
本命は、(無神論者の)汚い奴らを殺せ、である。

ミュラはマドリード内駐屯軍として一万の兵をもち、近郊にはさらに一万九〇〇〇をもっていた。これに対してスペイン政府軍は三〇〇〇にすぎず、政府軍の大半はナポレオンによってドイツと、今日でのデンマークにあたるフューネン島に派遣されていた。政府軍は命によって兵営に閉じ込められ、このスペイン軍中からマドリードの叛乱市民に加わったものは、兵十数人と三人か四人の将校しかいなかった。
ミュラは麾下の軍を四縦隊に分け、太陽の門広場へと放射状に集っている四つの大通りからの群衆排除を命じた。
建物の屋根、窓、空気抜きなどから軍は狙撃をうけた。大半はあたらなかったが、サン・ヘロニモ通りのヒハール公爵邸から発射された一発が、エジプト騎兵八六名車の、もっとも勇名高いムスターファなる男にあたり、即死させた。このムスターファは、アウステルリッツの会戦でロシアのコンスタンティン大公を殺していた。これがエジプト騎兵たちを怒らせ、半月刀を抜刀して太陽の門広場の群衆のなかへ突入させる結果を来たした。ゴヤが一八一四年にいたって描く『太陽の門広場における五月の二日』図の前条件がかくて用意されることになる。

六年後の一八一四年に、ゴヤがこのときの状況を描く際には、すでに状況は伝説化されてしまう。というのは、このエジプト騎兵隊は太陽の門広場で行進を止められたことは一度もなく、また白刃で殺されたものも一人もなかったのである。ましてエジプト騎兵にまじって竜騎兵の将校が一人描かれているけれども、そういうこともありえなかった。
エジプト騎兵の後からポーランド軽騎兵と竜騎兵、それにつづいて不気味な太鼓の音を轟かせて歩兵が来た。群衆は散って行った。軍は王宣前広場に集合し、太陽の門広場から放射状に出ている四つの大通りに向けて大砲が据えつけられ、霰弾がこめられて火縄に火がつけられた。

これですべてが終ったかに思われた。
けれども、一触即発の緊張状態にあって事故はつきものである。
王宮前広場から引き揚げるついでにエジプト騎兵たちは、そこから狙撃されて勇士ムスターファを殺されたヒハール公爵邸を襲い、これをうち壊し、召使いたちとここに避難していた人々数人を殺した。

かくて正午頃には、群衆はマドリードの中心地区から追われ、大半がそこの出身である下町のマラビーリァスと呼ばれる地区に追い込まれた。そこに砲兵廠があり、フランスの歩兵八〇人とスペイン砲兵十数名で警備をしていた。

ここで第二の事故が起った。スペイン側からである。
細部に立ち入ることはしないが、とにかくフランス兵八〇名が突入して来た群衆に、あっという間に武装解除され殴られたり蹴られたりした。
この八〇名を助け出すために一大隊のフランス兵が太鼓を叩きながら行進して来た。他地区でもスペイン兵の兵営がやられたという噂が流れて来た。そこで、この一隊に向けて大砲をほとんど零距離でぶっ放したのである。大砲を射ったのはスペイン側だけだった。それもたった一発だけで、あとはタマ込めが間にあわず、士官二人が殺された。
この一日の騒動で、軍と軍との間の衝突はこれ一件だけである。
午後一時である。初期の死者七人に加えて、この間の死者は六名である。箱屋一、版刻師一、砲兵大尉二、御者一、チョコレート屋一。
その他の地区での死者をもあわせて、この日一日での死者九一名。
これに対して、フランス軍側の死傷者は合計で一四五名。
・・・。重武装をしているフランス軍の側に死傷者がはるかに多かったのである。

政府は午後二時、武装解除命令を出し、西仏双方の護衛にまもられた大臣二名が群衆説得にまわった。フランシスコ・デ・パウラ親王は御両親のもとへおかえししなければならぬ、こういう事件を起しても政治的には意味をなさぬ、武器を捨てて家へ帰れ、等々・・・。

ミュラ将軍はここで重大なあやまちを犯した。午後六時、西仏双方の軍事委員会を結成し、そこで叛乱者を裁く、という決定をしたのである。しかもそれより以前、フランス軍はすでにそこから発砲をされた家を家宅捜索し続々と人々を逮捕した。マドリード警察も武器携行者や、訊問に答えぬ者、マドリード市民でない者を逮捕してこの軍事委員会に手渡した。
新しい、まったく新しい歴史がこの瞬間にはじまろうとしているのである。帝国の、正規の訓練をうけ、完璧に組織化された重武装の軍隊に対する、百姓どもの残酷無比な、いわゆるゲリラ戦争、Guerilla ゲリーリァの戦いがはじまる。
そうしてこのゲリーリァなることばは、二〇世紀の現在にもまだまだ十分な生命力をもって生きている。
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