2017年1月8日日曜日

長承4/保延元(1135)年 海賊追討使となった平忠盛(40)が海賊を鎮撫し凱旋 その功績により長男清盛(18)が従四位下に叙任 「忠盛朝臣、海賊七十人を虜にし、検非違使に渡す。・・・人皆見物す。日高禅師賊首たり。この中多くはこれ賊にあらず。ただ忠盛の家人にあらざる者を以て、賊虜と号して進むと云々」(「長秋記」8月19日条)

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長承4/保延元(1135)年
この年
・オーストリア最初のシトー派修道院ハイリゲンクロイツ修道院、設立。
バーベンベルク家オーストリア辺境伯レオポルト3世(神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世妹アグネスと結婚、ウィーンの街を獲得)。
962年神聖ローマ皇帝として戴冠したザクセン朝オットー1世は、マジャール人に荒廃させられた帝国南東部の再建と防衛のために、辺境伯領(マルク)を設置。その一つがオーストリア辺境伯領。
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・頃、イングランド、ギルバート会設立(女子修道会として有名)。
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・アンジュー伯ジョフロア(ヘンリー1世娘マティルダ夫)、ノルマンディーを征服。
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・ギョーム・ド・サンチエリ(50、ランス司教区ベネディクト会サンチエリ修道院長、1085~1148)、シトー会士となる(シニィ のシトー会修道院)。クレルヴォー修道院長ベルナールと深い親交。
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・レオン・カスティリャ王アルフォンソ7世、レオンのコルテスで皇帝即位を宣言。
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・ヴェローナにコムーネ成立。
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・アンティオキア総大司教ベルナール・ド・ヴァランス、没(位1099~1135)。アンティオキア候ボエモン2世娘コンスタンス(8又は9)とレイモン・ド・ポワティエとの結婚の契機となる。
経緯:
ボエモン2世妻アリックス、姉エルサレム王妃メリザンドに懇願し蟄居先ラタキアからアンティオキアに復帰、アンティオキアを意のままに治める。
ベルナール総大司教没し、マミストラ大司教ラウル・ド・ドムフロン総大司教就任(ドムフロン出身のラウル、ノルマン人)後、横暴ぶりを発揮して教会参事会員を投獄、アリックスを操りアンティオキア候のように振舞う。
アンティオキア諸侯、エルサレム王フルク5世に相談、コンスタンスの婿にレイモン・ポワティエ(30才過ぎ、アキテーヌ公ギョーム9世次男、アンティオキア候1136~1149)に白羽の矢を立てる。
聖ヨハネ修道騎士団ジェラール・ジェベロンをイングランド・ヘンリ1世宮廷にいるレイモンに派遣。レイモン、結婚を承諾、アンティオキアへ。 
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・北シリアのアレッポに政庁をおくイスラム太守ザンギと子ヌール・アッディン、アンティオキア候領の東半分を奪回。
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・アッバス朝アル・ムスタルシド、没(位1118~1135)。アル・ラシード、即位(位1135~1136)。  
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1月
・ダマスカスのアターベク、イスマーイール、アレッポのザンギーに救援を求める。
ダマスカス人は、ザンギーの背信行為(1129年末、ブーリの息子サヴィンを呼出し捕虜とする)を忘れられず、イスマーイール母ズムッルド妃に訴える。
30日、母ズムッルド妃は息子を殺害、もう1人の息子マフムードを擁立。ダマスカスに進軍するザンギーを迎撃。何度かのこぜりあいのあと休戦。
(3年後、この妃はザンギーに、結婚してダマスカスを占領してくれと頼むことになる)
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1月5日
・平清盛、正五位下叙任。
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1月16日
・頼長(16)、実能と同宿の二条烏丸邸が焼亡、この後、大炊御門高倉邸に移居
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1月25日
・藤原宗忠の日記『中右記』のこの日条。
左大臣で、陣定を指導する宗忠が、大夫史の小槻政重に対して、「平将門の乱によって、坂東八ヵ国は、二ヵ年分の公事を済ませればよいことになっているが、そのことを命じた官符はあるのか」と尋ねた。それに対し、政重は、「その官符はもとからありません。国司が任期ごとに申請し、先例によって免じられてきたのです」と答えた。
(任期の半分を納めるという先例は将門の乱を起点としている)。
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2月
・千葉常重、相馬御厨下司職を嫡男・常胤(18)に継承。
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2月8日
・頼長(16)、右大将を兼ねる。
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2月21日
・夜、大風で気比社の宮殿が倒れたと伝える。
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3月
・バンベルグ帝国議会、シュヴァーベン大公フリードリヒと皇帝ロタール3世、和解。
シュヴァーベンはバイエルン大公ハインリヒ尊大公とフリードリヒの争いで荒廃。
フリードリヒ、重要都市ウルム(シュトゥットガルト南東75Km、アウクスブルク西50Km)を攻略。
ロタール3世とホーエンシュタウフェン家兄弟は私闘(フェーデ)終結を悟る
(ホーエンシュタウフェン家兄弟は王位要求を断念・皇帝に降伏を決意。ロタール3世は兄弟を没落させない方が得策と考える)。
シュヴァーベン大公フリードリヒ、和平請願を繰り返し、ケルン大司教、マインツ大司教、レーゲンスブルク司教、シュパイエル司教が仲介、最後は、皇后リケンツァが仲介者。
バンベルク帝国議会でフリードリヒが皇帝の前に跪き降伏と服従を誓約。
ロタール3世は追放刑を赦し昔の資産を承認。
1135年聖ミカエル祭、コンラート3世との和解成立。ベルナールが和解に貢献(教皇特使として和解を勧告)。
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3月11日
・興福寺僧徒と争った東大寺の僧を罰して移郷させる。
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3月29日
・六宮道恵(4、鳥羽上皇と美濃局の子)、覚猷大僧正正弟子となる(「長秋記」)。
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月末
・ザンギー、ダマスカスを去る。帰路、マアッラなどフランクの要塞4つを奪回。
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4月8日
・平忠盛(40、清盛の父)を海賊追討使とする。
選任の経緯
当初、宣旨が国司に出され、それを受けて国司が国内の武勇の士に下知し、追捕を行うものとされたが、これでは海賊は鎮まらないという意見が出され、改めて審議がなされた。
海賊の首領たちは所々の荘園の住人なので、その荘園の本所(ほんじよ)に命じて召進することが議されたり、あるいは海賊の首領の一族が在京しているのでこれに命じて尋ね召すことなどが提案されたが、結局、備前守平忠盛か検非違使源為義かのいずれかを追討使に派遣するのがよいとされた。
公卿の多くは「西海に勢有る」(「長秋記」)として忠盛を推薦したところで、院の指示を仰ぐこととされた。
意見を聞いた院は、「為義を派遣すると路次の国々は滅亡する」(「中右記」)ので、「便宜」のある忠盛が望ましいと指示し、忠盛派遣に決定した。
この場合の「便宜」は、忠盛が以前から西海の海賊追討を行ってきたことや、西国の受領を歴任して家人が多く西海に存在することなどを意味するもの。
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4月27日
・「保延」に改元。
「天下疫疾飢饉の者、道路に充満す」という事態となっているため。
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5月17日
・待賢門院扇紙合、女院女房美濃局参加。
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5月18日
・上皇による仁和寺修理の供養。勧賞として修理を担当した若狭守藤原公信を重任(「中右記」)。*
5月25日
・内裏で最勝講。若狭守藤原公信、左方堂童子を務める(「長秋記」)。
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6月
・ダマスカス、スルタン・マスウード、バグダードのカリフ、アル・ムスタルシドを破り、捕虜に。2ヶ月後、惨殺。
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6月6日
・ピサ 教会会議。ベルナール出席。
ミラノ司教選挙にからむ紛争解決。対立教皇アナクレトゥスを破門。
ベルナール、ミラノ訪問、歓迎を受け、提供されたミラノ司教職を固持。

ピサ、海洋国家アマルフィ(11世紀初頭に全盛期)攻撃、市内掠奪。
アマルフィは最終的な没落を迎える。1137年にも襲撃・略奪。
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8月
・平忠盛、海賊を鎮撫し凱旋。
首領日高禅師源智(ひだかぜんじげんち)ら海賊70余を連行、内28名を人目の付く河原で検非違使に引き渡し、残り40人は人目に付かないところで引き渡したという。「中右記」は、忠盛は西国在地武士で忠盛の家人ではない者を捕虜の賊に仕立てたと推測。
こうして忠盛は院に仕え、西海の海賊の追討使に任じられたり、西国の受領となって、勢力を広げ、その地位と職権を利用しつつ、地方の武士との間に広範な主従関係を築いていった。

「忠盛朝臣、海賊七十人を虜にし、検非違使に渡す。・・・人皆見物す。日高禅師賊首たり。この中多くはこれ賊にあらず。ただ忠盛の家人にあらざる者を以て、賊虜と号して進むと云々」(「長秋記」8月19日条)。
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8月21日
・忠盛の海賊追討の功績により、長男清盛(18)が従四位下に叙任。
武家出身としては異例の抜擢。
翌年4月、中務大輔に任官。
また、右馬允(うまのじよう)平維綱(これつな)が右兵衛尉に任じられた。

これまでの清盛は白河院や祇園女御との関係から叙位・任官されてきたのであるが、ここに初めて忠盛との関係において叙任され、忠盛の嫡子としての立場が窺える。
また従四位下の位階は五位から四位への厚い壁を突破したものであって、ここに院近臣(いんのきんしん)で武家の平氏の家嫡という清盛の立場は確立した。

右兵衛尉に任じられた維綱は、鷲尾を称する忠盛の家人で、清盛の異母弟家盛の乳父。
忠盛は後妻の藤原宗兼の娘との間に家盛と頼盛の二人の子を儲けていた。
維綱の任官はこの時の追討の中心になって活動したことによるものとも考えられるが、家盛が前年3月11日に六位の蔵人になっており、維綱は家盛を補佐すべく在京して、海賊の追討には赴かなかったと考えられる。
従って、第一の家人である家貞が海賊追討の中心にあったと考えられる。家貞は前年に左衛門尉になっているので、もはや昇進の余地はなく、第二の家人である維綱が兵衛尉に任じられたものと見られる。

追討の中心となった家貞は、のちに清盛の手足となって働いており、その活動の場は西海にあったという。
『保元物語』には「清盛が郎等平兵衛尉家貞、鎮西に有けるが、この合戦の事を聞て急ぎ馳上(はせのぼり)たりける」と記されており、鎮西にあったために保元の乱には駆けつけることができなかったとある。
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・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(40)、カープア地方の再度の反乱鎮圧。カープア候国を廃し、王国に併合。
アリーフェ伯ライヌルフスの領地没収。ボイアーノ伯フゴの領地没収、リカルドゥス息子ロベルトゥスに与える。伯アレクサンデルの領地没収、ロゲリウス2世義理の息子伯アダムに与える。

カープアの大集会。ロゲリウス2世召集。カープア候に3男アンフススを任命(位1135~1144)。1135年末迄にロゲリウス2世はナポリを除く対立教皇アナクレトゥス2世より認められた全ての領地を支配下に置く。
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9月29日
・ミュールハウゼン、ホーエンシュタウフェン家コンラート3世とロタール3世、和解。叙任権闘争以来、半世紀にわたる「ドイツの内戦」終了。
コンラート3世、王位を捨て、ザリエル朝からの遺産として要求していた領地と権利を放棄。
ロタール3世、フリードリヒとコンラート3世の全ての封土を回復、コンラート3世を「帝国旗手」任命。 
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10月9日
・小六条殿での鳥羽上皇の孔雀経御修法が結願。布施として馬2疋、三河守・越前守が引く。
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11月
・クレルヴォー修道院長ベルナール、クレルヴォーに帰る。
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12月
・上皇の寵妃藤原得子、鳥羽上皇の子を産む。叡子(としこ)内親王。誕生直後に皇后泰子(藤原忠実の娘)の養女とされる。この提携により、得子・泰子(摂関家)と待賢門院の対立が次第に鮮明になっていく。
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12月1日
・イングランド王ノルマンディー公ヘンリ1世(67)、ノルマンディで没(1068~1135、位1100~1135)。
娘マティルダ(33、通称モード、ハインリヒ5世未亡人、アンジュー伯ジョフロワ妃)を相続者に指名。
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12月2日
・越前守高階盛章、宣旨により重任の功として気比社の神殿・雑舎などを造る。
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12月26日
・イングランド、ヘンリ1世甥でブロア伯息子エチエンヌ(英名スティーヴン)が即位
(ヘンリ1世妹アデラの息子(母アデールはウィリアム征服王娘)、ウィリアム征服王孫、位1135~1154)。
ヘンリ1世娘マチルダとの間に王位継承をめぐる内乱が勃発(1135~1152)。

ヘンリ1世は娘のマティルダ(神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世未亡人)を相続人に指名。従って彼女の再婚相手アンジュー伯ジョフロワ(ジェフリー)がイングランドとノルマンディーを手中にする筈。しかし、マティルダと同じくウィリアム征服王孫ブロワ伯スティーブンがイングランド上陸、イングランド王と称す。

残された1人娘マチルダはイギリス貴族に人気がなく、イギリス諸侯の宿敵アンジュー伯の妻。そこで、ヘンリ1世甥・ウィリアム征服王孫、ブロア伯シアボールド弟のスティヴンが動く。
ノルマンディにいたスティヴンは、直ちにイギリスに向かいケント州の港に上陸、ドーバーへ前進するが、ここを守るヘンリ1世庶子グロスター伯ロベールはスティヴンを締め出す。
やむなく、スティヴンはカンタベリーへ行っく、ここでもグロスター伯家臣から入場を拒否される。
次に、スティヴンは、ロンドンへ前進、ここで市民の歓迎を受けてロンドンへ入場、イギリス王に即位。

スティーヴン、王位推戴の代償に教会・諸侯の大幅な自由行動と自由裁量を承認。王権を全面的に家臣との契約の基礎の上に置き、家臣は了解事項を王が遵守する限り王に忠誠を遵守(条件付忠誠宣誓)。

第1期(1135~1139):
王権を維持、統治に成功。家臣との種々の約束の矛盾がでて不信と反乱を招く。
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