2018年12月18日火曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(8) 1926年(大正15年) 長谷川利行35歳 ふたたび上京、.....「・・・元号が昭和に代わり、再び日暮里の離れに腰を落ちつけた利行は一気に花が咲き画境を著しく加速させた。」(『評伝長谷川利行』)

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(7) 1924年(大正13年)初夏、佐伯祐三(26歳)、里見勝蔵と共にオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。
より続く

1925年(大正14)
長谷川利行(34歳)、二科展、帝展に応募したが落選がつづく。
この頃、関西日日新聞主催の「無名画展」に出品、また大坂府主催の「第3回大阪藝術展」で受賞。

1925年(大正14)
福沢一郎、この年夏から高畠達四郎、中山巍と同じアトリエ部落(ロンヌ街32番地)に住み、以後6年間を過す。この間、はじめシャガールの作風にひかれた。

1926年(大正15年)
■「一九三〇年協会」創立
創立メンバーは木下孝則、小島善太郎、前田寛治、佐伯祐三、里見勝蔵、の5名。

里見勝蔵は京都にいたが、パリ仲間の前田寛治、小島善太郎、木下孝則と語りあい、遅れて帰国した佐伯祐三も加わって、大正15年春、グループ「一九三〇年協会」を結成、5月に京橋の日米信託ビル2階で滞欧展を開く。
里見勝蔵《静物》1929大正15年


1926年(大正15年)
佐伯祐三(28歳)
1月、佐伯一家は祐正とともにパリを出発、イタリア各地を写生した後ローマで祐正(アメリカ経由で帰国)と別れ、
2月8日ナポリで日本郵船白山丸に乗船。
3月15日、神戸に帰着、
4月下落合のアトリエに帰る。
5月、里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎、木下孝則と一九三〇年協会を結成、第1回展に滞欧作11点(油彩7点)を出品。
9月、第13回二科展に滞欧作19点を特陳、二科賞を受賞。
この年後半から翌年にかけ、姉の嫁した大阪市岡の杉邨すぎむら家を度々訪ね《滞船》などを制作。また、再渡仏の資金集めのため画会を行う。

1926年(大正15年)
長谷川利行35歳
ふたたび上京、日暮里の日蓮宗中山派の修練所離れに落ちつく。

「・・・元号が昭和に代わり、再び日暮里の離れに腰を落ちつけた利行は一気に花が咲き画境を著しく加速させた。」(『評伝長谷川利行』)

この頃まだ郷里の父より月30円の仕送りをうけている。
「京成電車の道灌山駅から近く、トンボハーモニカ工場の門前に、日蓮宗中山派の修練所と云う建物があって、長谷川はその建物に付属した二間ばかりの汚い離れに住んでいた。玄関を上ると上り框からとっつきの四畳半一杯に、白い紙が散乱していて、足の踏み場もない」(矢野文夫『放水路落日』)。

「長谷川は道観山から日暮里にでる、日暮里と田端の中間の三角州のどぶ川にとりまかれた、日蓮宗中山派の寺の物置小屋に棲んでいた。五燭の電灯が一つ十二畳ほどの室内は古新聞と古雑誌、それに石油箱がテーブルがわりにおかれ、七輪とばけつ、盲縞の夜具が、古雑誌のかげに三つ折りにしてあった。長谷川はここに一時から朝の五時まで休息していたのだ。雨が降ろうが雪が降ろうが、彼は足のむくまま親しい人のところを一日中歩いていた。寺からは太鼓の音と、中山派の鋭い読経の声が、一日中聞こえていた」(熊谷登久平「長谷川利行」)。

9月、第13回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《田端電信所》初入選。
この年の二科展は3千数百点の応募作品が持ち込まれ、2百数十点が入選した。
利行作品の審査模様を東郷育児が書いている。

「長谷川利行の絵を見ると正宗得三郎先生の顔がすぐ浮かんで来る。一番最初、二科の審査で長谷川利行の絵を支持されたのは正宗先生だけだった。ほとんどの先生方が嫌っているのに、正宗先生だけが激賞して一歩も後に引こうとされないので、末輩の私など、ただおろおろするばかりだった。とうとうがん張り通して入選はしたものの、他の先生方は恐らく後味の悪い思いをされたことだろう。
その長谷川の絵が、次第に面白さを増し、粗暴な画面の奥から、不思議な魅力がにじみ出るようになったのはそれほど遠いことではなかった。
見馴れない粗野な仕事に対する嫌悪感が当初の我々にはたしかにあったと思われるが、ただ一人正宗さんだけが長谷川の素質に鋭利な見通しをつけられていたことは、あの当時としては、まことに不思議といわなければならない」  ((東郷青児「長谷川利行の足」)『放浪の天才画家長谷川利行展図録』 毎日新聞社)

10月、第7回帝国美術院展覧会(10.16-20 東京府美術館)に《廃道》を出品。この作品はのち部屋代の滞納により家主の和尚に差し押さえられる。

1926年(大正15年)
吉井忠
この年、卒業して上京、東京美術学校を受験するが失敗。中村彝の出身校であることを理由に、太平洋画会研究所に入学。所長は中村不折。同学に、井上長三郎、鶴岡政男、靉光、寺田政明、麻生三郎、松本竣介ら。彼らの活動および、当時活躍中の、佐伯祐三、前田寛治、長谷川利行らの画風に刺激を受ける。"

1926年(大正15年)
靉光19歳
第13回二科展に出品した「ランプのある静物」が初入選。

「十三回展のときには、靉光にはキャンヴァスを買う金がなく、先輩から借りて四、五日で「ランプのある静物」を描きあげ、初入選をはたした。」(『池袋モンパルナス』)

つづく





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