2018年12月13日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その31)「不逞鮮人の1人や2人が仮にあったとしても、この大火災に対して、その一つや二つの爆弾に何等の権威があろう。冷静を欠いた人達はこの常識で推断される何でもない事実を考える余裕もなく、惨禍の結果を不逞鮮人の跳梁に因るものとした。」

大正12年(1923)9月2日(その30)「先刻、大塚の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊が2千人ばかり、軍隊に追われて約20分後にはこの方面へ逃げて来ますから、みなさん警備について下さい」 すると約10分もたつかたたないうちに、また別の方面から伝令が来る。 「先刻、赤羽の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊2千人が、軍隊に追われて約10分の後にはこの方面へ退却して来ますから、みなさん警備について下さい」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/小石川〉
武末安治
〔2日、小石川植物園で〕皆の話によると不逞鮮人が焼け残った小石川に入り込んで焼打ちの陰謀を企てている。それで植物園にも侵入した形跡があるので区民は一斉に警戒を始めた。そして避難者も一家族に一人宛は張り番するように触れて来たとの事である。
私は漸く眠りに入ろうとする時、提灯を振翳(ふりかざ)し片手に棒を持ち軽装した若い人達が「皆さんどうか男の方は集まって下さい。少しお話したい事がありますから」と無理矢理に召集した。私はいち早くかけつけた。そこには35、6の在郷軍人服に身固めした人を頭に4、5人の同じような扮装の人達が立っていた。「皆こちらに集まって下さい。そうして円く囲んで下さい」 若い連中はこう云い云いして避難民を狩集めて来た。狩出される人々はそう迅速には寄らなかった。それに業を煮やしたのであろう、その頭はもどかしそうに、力強く咽喉も裂けんばかりに怒鳴った。「諸君集まれーツ」 その声が余りに大きいので、今まで愚図愚図していた人達も、何事が起ったのかと吃驚したかのように、急にドヤドヤと押寄せて来た。頃合を計ってその人は朴訥な口調で述べ立てた。
「諸君ッ、今回の震災で帝都の中心地である日本橋、京橋、芝、浅草を始め本所、深川は皆焼かれてしまった。如何に地震のためとはいえ常識で考えてこうまでも焼ける筈はないのである。それが何故こんなに焼けたか、それは実に憎い憎い不逞鮮人の決死隊が大挙して要所要所に爆弾を投じたからである」
その声には熱が籠っていた。眼は血走っているのが提灯の光で窺われた。避難者の群は固唾を呑んで聞いた、辺りはシーンとなった。彼は尚怒気を含んだ声で言葉を継いだ。
「それで今焼残っているのは我小石川を始め、牛込、四谷、赤坂、麻布及び芝と本郷の一部に過ぎないのである、狂暴な不逞鮮人団は先刻上野駅に爆弾を投じた、その火は同駅を焼き払って遂に上野公園の樹木に燃え広がった。それがため同公園に避難している数万の避難者は再び火に追われて我が植物園に向って殺到して来るようである、不逞団は今度は我が小石川を焼払うべく潜入したとの情報がある、我々はあくまでもこの完全に焼残った地域を死守しなければならない。不逞鮮人防禦のためには自警団を組織して厳重な警戒が必要である。それがために現在では人不足を生じている。この際諸君の中の有志者は警戒の任に当って貰いたい、それから炊き出しの加勢をして頂きたい。それでなければとても明日からは諸君への食糧の配給も覚束ないのである」と結ぶと、その言葉の下に「私もその任に当りたいです」「どうか使って下さい!」「私も希望します」と申し込んでいるものもあったが、大部分は散った。その人達は昨日からあまりに疲れていた。あまつさえ総てを焼かれた失望と落胆とに、そんな気力はなかったのであろう。
私は腹立たしさを感じた。或る大きな杞憂が胸を往来した。「なるほど焼け残った地域を死守する為の自警団」 それは実によい事である、賛成である。私も進んで警戒の任に当ってもよい。しかし不逞鮮人云々の一句に対してはあくまでも反対である。何という無理解な人達であろう、この人達は朝鮮を知らないのだ。知らなければこそ不逞団の実力を過信しているのである。否々未曾有の大震火災にこの人達は血迷うているのだ。常識の判断を失っているのだ。
〔略。火災に対して〕消防に尽す勇敢な人々の努力も何等の甲斐がなかった。水道の鉄管は地震に破裂して用をなさない。人々は傍観するより外はなかった。かくして火は当然すぎる程の当然さでありとあらゆる可燃性物質を焼いて行った。家も何もかも。否! 現に今尚帝都は燃えているのである。不逞鮮人の1人や2人が仮にあったとしても、この大火災に対して、その一つや二つの爆弾に何等の権威があろう。冷静を欠いた人達はこの常識で推断される何でもない事実を考える余裕もなく、惨禍の結果を不逞鮮人の跳梁に因るものとした。
〔略。3日〕私はいった「朝鮮人が爆弾を投じたのであんな大火になったなんて、そんな馬鹿な事はありませんよ、その原因は外にある筈です。そんな誤解から今朝鮮人に危害を加えたりすると朝鮮統治上悪結果を来す事になるんです」
古藤の主人は言下に、「だって皆んながマッチと揮発油を、懐にしているというから仕様がないではないか」 ああッ! この人も浮説に惑わされている、この人ばかりは話せると思ったのに〔略〕。
安藤坂を上りつめるとそのあまりな物々しい光景に私は呆然としていた。伝通院への入口の道にズラリと人垣を造った自警団、手ん手に提灯を持っている、棒を持っている、いずれもが尻端折りの草鞋(わらじ)がげで身を固めている。伝通院を背景としたその場面は宛然たる大江戸の気分である、私の脳裏には、与力、同心、こうしたものの姿をあの芝居そのままの舞台面を現実に味わう幻としてこの人達を眺めた。〔略〕伝通院の門前から右に折れて1、2町も行くと、そこにも又縄張りして警戒している10人ばかりの自警団があった。〔略〕「燐寸なんか持っていませんか」「そんなもの持っていません、念のためにサアお調べ下さい」〔略〕次の角でも矢張り同じように調べられた。一人は私の顔を調べた。私は吃(きつ)となってその男の顔を見返した。帽子を脱いで見せた、心ではこの男は朝鮮にいた事があるのだろうと思った。
(武未安治『回顧の大震災私記 - 若き生の恵み』就実社、1927年)

田中貢太郎〔作家〕
〔2日、茗荷谷で〕「不逞の徒が市中の要所要所へ爆弾を投じている。火事は不逞の徒の爆弾投下によって大きくなった。本所方面の不逞の徒と在郷軍人団とが激戦中である。被服廠跡の避難者の中へ不逞の徒が爆弾を投じたので無数の死者を生じた。世田谷方面に200名の不逞の従があらわれたので包囲中である」。こうした噂が地震と火災に怯えている人々の間に広まって来た。私がそうした噂を最初に耳にしたのは2日の夜明け方であった。私達一家の者は1日の彼の大地震が突発すると共に、すぐ近くの奈良県の寄宿舎の庭へ避難していて、そこで不安な一夜を明かしていた。それは世の終極を思わするような市中の混乱を見てから来た若い友人の口からであった。
「警視庁も、帝劇も、内務省も、大蔵省も、また文部省も、三越、白木屋、朝日新聞社、皆焼けたそうですよ。不逞人が爆弾を投げていると云うのです」
その友人は私達の寝ている筵の端へ腰をおろした。
「さっき、東五軒町へ、不逞人の一人が放火しているのを町内の者が見つけて、半殺しにしたそうです。怪しい奴は〇〇〇〇〇〇〇、皆が云っているのですよ」
〔略。2日朝〕隣家の人達が5、6人集まって、不遇の徒の噂をしながら憤激していた。・・・・・車夫が空車を曳いて藤坂の方から来たが、傍へ来ると足を止めて云った。「今大塚の車庫前で、7人捕まえたが、爆弾を持っていたのだ。ひどい野郎だ」
私はあぶれ者の労働者が火事場泥棒をやることは、あり得ることだと思ったが、たとえば神風連の暴動のような組織だった不逞の徒の暴動などはあり得べき筈のものでないと思った。しかし、流言は流言を産み、蜚語は蜚語を生んで、今や東京市民は、凶暴な不逞人の包囲の内にあるような騒ぎとなった。その日の正午時分には、安藤坂下に在郷軍人が服を着て木剣を手にした若い男の姿を見るようになった。私の隣家の人達も木剣や鉄棒を杖にして、私の家の前の街路の上に集って来た。
〔略〕下谷から三輪の方を焼いているらしい火事の煙が空の一方をくすべていて、その焼けぼこりが風に乗って飛んで来た。不逞の徒が山の手の未焼の地を狙っているという噂が高まって来て、今にも私達の住んでいる茗荷谷も焼き払われそうに思われて来た。藤坂をあがって大塚行きの電車通りに出て見ると、その坂のあがり口の左角に店を持っている下駄屋の主人などが在郷軍人の服を霜て、手に木剣を持ちながら坂の上を警戒していた。
〔略〕町内の者とも刑事とも判らないズボンにシャツを弟た木剣を片手にした男が、私達の前を往来しはじめた。その人達の中には私達の前で足を止めてこんなことを云う者があった。
「御苦労さんですね。怪しい奴なら、〇〇〇〇〇〇〇〇○○、しっかりやってください。今晩はこのあたりが危険ですから。」
牛込の方から来たある男は、牛込あたりでは至る所で自警団が通行人を誰何していると云った。その男は早稲田の方にも不逞人がいるから、今それを警戒しているそうだと云った。
夕方になって新聞の号外のような物を持った若い男が走って来て、その刷物を1、2枚私達のいる前へ投げるように置いた。「これを貼ってください」
それは謄写版にしたもので、それには今晩小石川小学校を中心に、放火掠奪を恣(ほしいまま)にせんとする不逞の徒があるから、各自の警戒を望むというような恐るべき警告であった。私は鳴物が入りすぎるとは思ったが、謄写版にまですることであるからすこしは実証のあることを〇〇〇か〇〇〇〇〇あたりから出したものだろうと思った。飯島さんは大いに感激したように家から新聞紙大のザラ紙を持って来さして、それに警告文を大きく写し、赤インクで圏点まで入れて、向かいの藤寺の墓地の垣根に貼らせた。
私は家に入って行って2階の押入れの中から手槍を取って来た。〔略〕茗荷谷の街路は切支丹坂の下から拓殖大学の前にかけて、もう歩哨線を張ったようにそこにもここにも警戒線が設けられていた。私達の線には隣家の者が20人あまりもいた。私達は飯島さんの御神燈と書いた提燈を借りて、それを街路の上に点けてその付近に立っていた。〔略〕伝令のような者が藤坂下の団体の方から時々やって来た。
「50名の不逞不遇人が、白山の方から侵入して来たと云うから、大いに注惹してください。次へ取り次いでください」
若い団員はそうした物珍しいことをするのが面白くてたまらないというように、そのつど争って我先にと走った。切支丹坂下の方へ行く路の曲がり角には、茗荷谷町のはずれの者と第六天町のはずれの者とが15、6人集まっていた。切支丹坂下の方の伝令を伝えてその方から人が来た。呼子を3度吹く時は第六天の方に不逞の徒が来た時であるから、応援に来てくれ。そっちに危険なことがあれば、呼子を2度鳴らしてもらいたいというようなことをいって来た。もう通行人を誰何していた。小柄な面長な色の浅黒い洋服の若い男や、半纏着のふてぶてしい土方ふうの男などは、身体検査をした。すまして通り過ぎようとする者は、走って行って捕まえた。
「ちょっと、ちょっと。君はここに、我々が立っているのが見えないのですか」そうした人達はさんざん叱った上に、体中手の行かない所もないようにして持ち物を詮議した。
「そんな奴は構うことはない。やっつけろ」
団員の中には瀬川さんというような酒の勢いで面白半分に怒鳴る人もあった。長い日本刀を背負うようにして腕に衣片を巻いて符号とした者が往来した。私達も黄色な衣片を腕に巻いていた。私は藤坂の上が気がかりであったから、その方へ回って行って帰って来たところで呼子の音がした。それは切支丹坂の方でする呼子の音であった。続いて不逞人不逞人という声が聞えた。不逞人は私達の家の後ろの崖続きに潜入しているらしかった。私達は百軒長屋の後ろへ集まった。そこの竹垣の破れの所には堤燈が吊るしてあった。私達は草の深いその崖へあがって、木や草を手に手に叩いた。
「どこだ。どこだ」「不逞人はどこへ行った」
崖の上には熊本県の寄宿舎があった。そこの学生が崖の上に出て来て私達に応援していた。崖の下には清水の出る井戸があった。この井戸の傍に私の家の裏木戸があった。私はその戸を開けて団員の3、4を内に入れ、それを2階の屋根にあげて、提燈の灯で崖の中腹を見さしたが、薮が深くて何も見えなかった。私は鞘をはずしていた槍の穂を急にしまって独り苦笑した。そうして私は門の前へと出て行った。
「いいかげんなことを云ってやがらあ」「こんなに張り番している所へ、これるもんかい。ばかばかしい」
こんなことを云って憤りながら出てくる者もあった。その中には笑い声も交って聞こえた。
〔略。3日〕不逞の徒の噂はますます伝わって来た。私達はさまざまな噂を聞きながらその前を通過する者を警戒していた。もう一筋の縄を張って詮議の終るまで勝手に前へ行けないようにしてあった。
〔略〕3時頃団員にことわっておいて出かけたところが、至る所で厳しく調べられた。そして、すぐ帰って来て藤坂をおりかけたところで、また不逞人不逞人と云って騒ぐ声を聞きつけた。私は走って坂をおりて行った。坂の正面になった一軒の家へ2、3人の者が走り込んで行くので、私もその内へ入って、そこの庭先の池を巡って崖の上へと行った。そこには5、6人の藤坂下に警備している人々があっちこっちしているばかりで、不逞人などの姿は見えなかった。私はそこで不逞人は自分の家の後ろの方にいるかも判らないと思って、家に帰り、玄関の内に立てかけてあった槍を持って、百軒長屋の方へ回ってそこから崖へとあがった。そこには仲間の団員が7、8人もいてやはり探していたが、とうとう不逞人らしい者は見つからなかった。
夕方になって友人の細君が雨に濡れてやって来た。私はその夜藤坂上を警備に行った。私達は坂のおり口に縄を張り、下駄屋から持ち出してきた牀几(しょうぎ)に腰をかけていた。電車通りへ両側から避難していた者はもう内へ入って、そこには竹早町と清水谷町の自警団が提燈を持って一間おきに立っていた。その人々は藤坂の右の方半町位の所と、左の半町位のところで往来の自動車を止めはじめた。警視庁、警察、陸軍省、内務省などと書いた提燈を点けた自動車が唯々として止まった。
「只今、小石川小学校の傍で、警察官の服を着た者が、放火しようとしているところを捕まえました。皆さんご用心を願います」
それから人々の自動車を止める権幕が暴くなった。その事の中には兵士や警官が溢れるように乗った荷物自動車もあった。晩くなってから30分の交通遮断という命令がどこからともなしに伝わって来て、そのつど往来の交通が遮断された。
〔略。4日〕「 - さん。今聞きますと、この警戒線の内に、朝鮮人がいるそうですが、このままにしておいては、万一のことがあった場合、他の者に対して申し訳がないと思いますが、どうしたら好いでしょう。今、皆さんと相談しているところですが・・・」
私は百軒長屋の一軒の2階に3人、他の一軒の2階に2人、合わせて5人の朝鮮人の学生がいて、その学生達は長屋の後ろの崖下を警戒していたし、またその学生達が不逞の徒の中へ巻き込まれるのを恐れているということも知っていたので、それを問題にすることはその学生達に対して済まないような気がした。
「私は学生のことは知っていました。警備の手伝いもしてくれていたんですが・・・、そうですか、私はその学生がどういう経歴の者か、そんな事は知らないですから、責任を負うてどうと云うことは出来ないですが・・・」
私はその学生はそのままにそつとして置きたかった。傍にその学生の一人がいるのが眼についた。私は学生のことを問題にするのがますます気の毒になったが、しかしそうした流言蜚語の多い場合であるから、なまじっかかばいだてのこともいえないので、その学生達が巻き添えをくわない内に自発的に警察へ行って保護してもらったらどうだろうと云う意味の意見を出した。その私の意見は皆のいれるところとなった。
(田中貢太郎・高山辰三編『叙情日本大震災史』教文社、1924年)

つづく




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