2022年7月4日月曜日

〈藤原定家の時代045〉治承4(1180)2月 現存する定家(19)「明月記」の始まり 藤原俊成邸近隣で火事。五条京極邸焼亡。俊成・定家父子ら焼け出される  

 



治承4(1180)

2月

・清盛の指示により、基通の兄弟の忠良(ただよし)が元服。

2月5日

・現存する定家(19)「明月記」の始まり。実際は、前年治承3(1179)年3月11日、内の昇殿(内裏の殿上に昇る資格)を得た時からと推測される。

「五日。右宰相中将(束帯)参入す、若しくは釈奠(セキテン)の次いでか、」(「明月記」)。宰相(参議)右中将藤原実守が内裏(高倉天皇)に参入してきたが、それは釈奠の次いでに来たのだろうか)。「釈奠」は、孔子らの儒教の聖人を祭る朝廷の儀式。

2月9日

・定家(19)、内(天皇)に仕え、高倉天皇近臣で宰相中条の源通親や蔵人頭の平重衝と交流があり、高倉の中宮徳子や八条院にも仕えている。この日、大原野祭の御幣等準備のため、中宮平徳子に参る。

2月11日

・定家(19)、姉高松院新大納言(祇王御前)の夫藤原家通より布衣騎馬の故実を教えられる。

「二月十一日。晴天。夜、雨下ル。関白ノ御弟元服ト云々。其ノ年十七。名、忠良(正五位下)。六角ニ向ヒ武衛ニ謁シ申ス。布衣騎馬ノ時、薄色ノ指貫ヲ着セバ、随身ヲ具スベシ。浅黄ヲ着セバ、随身無力ルベキ由、先達ノ説有ル由、語り給フ。」(「明月記」)

関白藤原基通の弟忠良の元服。ついで、有職服飾の事を記す。儀式、服飾の精細な記録は、定家生涯の執心。

2月13日

・清盛、九条兼実に対し、子の右大将艮通(よしみち)と、清盛の外孫で中納言花山院兼雅の娘(関白の養女)との婚姻を急ぐよう指示。

2月14日

・藤原俊成邸近隣で火事。五条京極邸(*)焼亡。俊成・定家ら、源成実邸に避難。その後(5月23日)、定家は法勝寺の外祖母の家に移る。

「二月十四日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ咲開ク。芬芳四散ス。家中人無ク、一身徘徊ス。夜深ク寝所ニ帰ル。灯、髣髴(ハウフツ)トシテ猶寝ニ付クノ心無シ。更ニ南ノ方ニ出デ、梅花ヲ見ルノ間、忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方卜云々。太(ハナハ)ダ近シ。須叟ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク。即チ車ニ乗りテ出ヅ。其ノ所無キニ依り、北小路成実朝臣ノ宅ニ渡り給フ。倉町等、方時煙二化ス。風太ダ利シト云々。文書等多ク焼ケ了ンヌ。刑部卿直衣ヲ着シ来臨サル。入道殿謁セシメ給フ。狭小ナル板屋、毎度堪へ難シ。」(「明月記」)。

明月片雲なき夜、梅花の香流るる中、定家は寝もやらず徘徊しているうちに火事があった。俊成とともに、北小路成実朝臣の家に避難する。やがて、刑部卿が見舞に来る。俊成が逢う。俊成の家は全焼した。定家は、父俊成に対し、終始敬称をもって記述。

「十六日。晴天。今夜開院ニ行幸。衣裳等違乱ニ依り出仕セズ。東ノ大路ニ出デ、此ノ方ヲ望ム。只炬火ノ光ヲ見ル。後ニ聞ク。供奉ノ公卿、大納言四人(大将・宗房・実国・宗国)、中納言四人(兼雅・大将・成範・実家)、参議(家通・実守・実宗)、三位(修範・実清・頼実)ト。武衛注セラルル所ナリ。」(「明月記」)。

高倉天皇の行幸に、火事で衣裳を焼失したためか供奉しなかったが、大路に出てはるかにこれを見、供奉の人々を聞書きする。


つづく

(*)五条京極邸;現在の寺町松原あたり

史跡下010  俊成社  ・ここに藤原定家も住まいしていた


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