2022年7月3日日曜日

〈藤原定家の時代044〉治承4(1180)1月 頼盛ら復帰 言仁親王(3、安徳)著袴の儀 重衡(25)蔵人頭   

 



治承4(1180)

1月19日

・清盛、妻時子病気の報により上洛。20日の東宮の着袴の儀式を終え、時子の回復を見届けて、22日、福原に戻る。

この間、クーデタで謹慎を命じていた中納言花山院兼雅と平頼盛、参議藤原定能らの朝参復帰処置をとる。23日に兼雅と頼盛、その翌日には定能の出仕が許される。

・平頼盛、還任され、加賀・佐渡を知行国として与えられる。

平忠度、薩摩守・左兵衛佐兼任・正四位下となる。

○平頼盛(1132長承元年~1186文治2年):

父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房)(愚管抄・久我家文書)。保盛・光盛らの父。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。

久安2年(1146)皇后宮権少進となり、以後右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)正二位権大納言。仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官されるなど、清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係にある。

寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちの際には都に留る(玉葉・愚管抄等)。同10月鎌倉に下向(公卿補任)、翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛(「吾妻鏡」4月6日、6月1、5日条等)。文治元年(1185)5月、病により東大寺で出家(古記・公卿補任)。翌年6月2日没(吾妻鏡・公卿補任)。

○平忠度(タダノリ、?~1184寿永3):

薩摩守、平忠盛の6男。清盛の末弟。母は歌人僧正遍照の子孫にあたる高成の女、妻は同族の高綱(歌人)の女。

「兵範記」仁安元年(1167)11月16日条に、清盛の内大臣拝賀の前駆の中に「阿波前司忠度」とある。その後、「右衛門佐」(「兵範記」仁安2年8月14日条など)、「伯耆守」(「玉葉」治承3年11月18日条等)、「薩摩守」(治承4年9月11日条等)などを歴任。治承2年正月5日従四位上(「玉葉」「山槐記」同日条)。治承4年の富士川合戦(「玉葉」9月9、11日条)、翌5年3月の墨俣合戦(「古記」13日条)に名が見え、源氏追討の遠征にしばしば参加。寿永3年一の谷合戦で討たれ、八条河原にその首が並べられる(「吾妻鏡」2月13日条)。

歌人としても知られ、「千載集」(詠み人知らず)をはじめ、「新勅撰集」「玉葉集」「風雅集」「新拾遺集」などの勅撰集に10首入集。私家集「忠度集」。また、「吾妻鏡」には熊野別当湛快の女と結婚とある(元暦2年2月19日条)。

「『平家物語』の平忠度」を投稿予定(日時は不詳)

1月20日

・言仁親王(3、ときひと、安徳)著袴の儀。

「来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり。」(「玉葉」)。

「とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれども、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。」(「平家物語」)。

○安徳天皇(1178~85)。

81代天皇。在位1180~85。父高倉天皇。母清盛娘徳子(建礼門院)。諱は言仁。外祖父清盛が溺愛する様子は「山槐記」に見える。

清盛は、治承元年(1177)の鹿ヶ谷の謀議以降、白河院を幽閉し、この年2月21日、3歳の親王を皇位につける。しかし反平氏政権活動は開始され、養和元年(1181)清盛没後は本格化。寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に迫り、天皇は平氏一門と共に西方へ下る。太宰府、宇佐八幡宮、屋島などへ在所を遷し、長門国壇ノ浦の戦で入水。「二品禅尼宝剣を持し、接察使(アゼチ)局先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す」(「吾妻鏡」元暦2年3月24日条)。「平家物語」は祖母二位尼に抱かれて入水と伝える。

○建礼門院(1155~1213):

平徳子。父は平清盛。母は平時子。

承安元年(1171)高倉天皇の女御として入内、翌年中宮。治承2年(1178)皇子を産む。4年の安得天皇即位に際し、国母の地位に上る。翌5年正月、高倉上皇(21)は病没し、同年11月、女院号を宣下され建礼門院と号す。寿永2年(1183)、安徳天皇と平氏と共に都落ち、元暦2年(1185)、壇ノ浦では藤重ねの衣を着て入水するも、源氏方の渡辺党の武士に熊手で髪を引っ掛けられ、引き上げられる。

その後、都に送還され、文治元年(1185)5月1日、東山長楽寺で出家。大原の寂光院に移り、安徳天皇、夫、平氏一門の菩提を弔って暮らす。阿波内侍(信西の娘)と安徳天皇の乳母大納言佐局(ダイナゴンボスケノツボネ)が生活を共にする。文治3年、頼朝は平家没官領のうち摂津国真井・嶋屋両荘(建礼門院の同母兄の平宗盛の所領)を与える。「吾妻鏡」では、建礼門院の「かの御幽栖を訪い申さるによってなり」(文治3年2月1日条)とあり、頼朝は人を遣わして女院の閑居の様を見させた上で措置する。「平家物語」灌頂巻は、大原寂光院の有り様を、「甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑(カカ)ぐとも、かやうの所をや申すべき」と描く。「平家物語」は、この山深い大原の女院のもとを後白河院が訪ね、往時を語り合い、やがて「寂光院の鐘の声」に送られて帰る場面で終る。

○九条兼実(1149~1207):

藤原忠通の3男、母は藤原仲光の女加賀。九条家を創設。通称、月輪関白殿、後法性寺殿。

文治元年(1185)内覧、翌2年摂政ならびに氏長者。この間の人事は、頼朝の意向が大きく反映。「吾妻鏡」では、文治元年行家・義経の反逆に対し、兼実が「すこぶる関東を扶持せらるる」と頼朝を支持し、「頼朝欣悦したまふ」(文治元年11月7日条)とある。また、摂政就任にあたっては、「和漢の才智すこぶる人に越えしめたまふ」との人物評を記す(文治2年2月27日条)。兼実と近衛基通との摂関家領を巡る紛争では、頼朝が兼実を支援(「吾妻鏡」文治2年3月24日条)、後白河上皇は基通の主張を擁護し基通の勝利となる(「同」4月13日条)。文治3年(1187)記録所設置。文治5年太政大臣就任。建久元年(1190)娘任子が後鳥羽天皇に入内。建久2年関白。建久3年後白河法皇没後、頼朝征夷大将軍就任に奔走。建久6年(1195)東大寺落慶供養のため上洛した頼朝としばしば会談。

建久7年11月1日、源(土御門)通親の養女在子の皇子出産を機に宮廷内の勢力が変転。11月24日兼実の娘中宮任子が内裏より退出させられ、25日兼実は事実上関白を罷免される。この建久7年の政変により兼実は失脚、連座して弟慈円も天台座主を辞す。背景には源通親の讒言、大姫入内を図る頼朝の意向があったと推測される。建仁2年(1202)1月28日、法性寺で出家。承元元年(1207)4月5日没(59)。「選択本願念仏集」は兼実の要請を受けて著されたものとされる。長寛2年~正治2年の約40年間の日記「玉葉」は「吾妻鏡」とならび、鎌倉期の重要史料とされる。

1月28日

・源(久我)通親、参議・左近衛権中将に就任。2月6日、拝賀(「明月記」)。24日、高倉院庁別当になって高倉上皇の院近臣となる。

「参内、新宰相中将(通親)束帯にて渡殿に候ぜらる、招寄せ言談せくる、新頭(重衡)又参入す、中宮(高倉中宮徳子)御方に参る、大原野祭の御幣算儲く、退出、八条院に参る」(「明月記」2月9日条)。

1月28日

・平重衡(25)、蔵人頭に任命。2月、言仁が即位し安徳天皇になると、ひきつづきその蔵人頭に就任し、新設の高倉上皇院庁の別当を兼ねる。

○平重衡(1157~1185):

清盛の5男、母は平時子、宗盛・知盛の同母弟。本三位中将と称す。

軍略にすぐれ、この年治承4年(1180)、兄知盛と共に以仁王・源頼政を宇治川に討ち、同年暮れ、反平家の拠点南都を攻撃、東大寺・興福寺が灰燼に帰す。養和元年(1181)の墨俣川の戦い、寿永2年(1183)の水島合戦に勝利するが、寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで捕虜となり、三種神器との交換による源平間の講和を斡旋するが、実現できず。その後鎌倉に下向、鎌倉では丁重にもてなされるが、南都の要求に応じて幕府は身柄を引渡し、文治元年(1185)6月に泉木津で斬首。

「平家物語」では関東での虜囚の身となった重衡の世話をした千手前の恋が印象的に描かれ、「吾妻鏡」では、重衡処刑の3年後、「恋慕の思い、朝夕に休まず」病いとなった千手前が24歳で没するとしている(「吾妻鏡」文治4年4月25日条)。


つづく


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