治承4(1180)年
12月25日
・南都合戦。
平重衡(蔵人頭)率いる追討軍、南都へ向けて発向。井出~木津~奈良坂(奈良街道)。
26日、宇治辺りで待機。
27日未明、奈良に突入。午前6時、興福寺大衆7千余、奈良坂・般若寺の道に堀・掻楯・逆茂木で応戦。平家軍は2手に分けこれを突破。
28日、重衡は法華寺鳥居前に本陣。夜、播磨揖保郡福井荘の下司次郎大夫俊方が重衡の命令で民家に放火。烈風により延焼、市街地・東大寺・興福寺以下南都7大寺焼打。大仏殿2階に逃げた僧侶千数百人と大仏が猛火に包まれ、頭部が落ち身体は溶ける。春日社と僅かな堂舎のみが焼け残る。衆徒の多くが没。凶徒30余を捕えて斬首。平家は仏敵となり、全寺院勢力が平家の敵となる。熊野衆徒は源氏に呼応。貴族の心も離反。
29日、平重衡、凶徒の首49を長刀につけ、法師1人を搦め捕らえて凱旋。
「大喪兵革等有り、尤モ恐ルべシト云々」(「玉葉」23日)。
「今日、蔵人の頭重衡朝臣、大将軍として南都の悪徒を追討せんが為下向す。来二十八日攻戦すべし。今一両日宇治に経廻すべしと。」(「玉葉」25日条)。
「宇治地の官軍、今日発向す。明日合戦すべしと。奈良勢六万騎ばかりと。但し一定を知らず。」(「玉葉」26日条)。
「伝聞、去る夜重衡朝臣南都に寄す。その勢莫大に依って、忽ち合戦すること能わずと。狛川原の辺の在家併せて焼き払う。或いは又光明山を焼かんと欲すと。」(「玉葉」28日条)。
「巳の刻人告げて云く、重衡朝臣南都を征伐し、只今帰洛すと。また人云く、興福寺・東大寺已下、堂宇・房舎地を払い焼失す。御社に於いては免じをはんぬと。また悪徒三十余人これを梟首す。その残り春日山に逃げ籠もると。凶徒の戮さるに至れば、還って御寺の要事たり。七大寺已下、悉く灰燼に変わるの條、世の為民の為、仏法・王法減し尽きをはんぬるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず。」(「玉葉」29日条)。
奈良炎上(「平家物語」巻5):
高倉宮(以仁王)の件で興福寺・三井寺は攻められるかもしれないと、奈良興福寺衆徒が蜂起。摂政基通が、思うことがあれば何度でも朝廷に申し上げる、と説得するが聞き入れられず、勧学院別当忠成や右衛門佐親雅を派遣しても、髻を切れと大騒ぎ。清盛は、瀬尾太郎兼康を派遣するが、60余を殺害。遂に大将軍頭中将重衡・副将軍中宮亮通盛として4万で攻撃。興福寺側7千余。28日、火をかけ、東大寺・興福寺など多くの寺が焼け、建礼門院・後白河院・高倉上皇・摂政基通は嘆く。
南都守備の大衆7千余は、奈良坂・板若寺2ヶ所の路を掘切り、掻楯(カイダテ、楯を垣根のように並べた防塞)をかき、逆木(サカモギ、大木の枝先を外にむけて並べた防塞)を引いて抵抗。
「平家四万余騎を二手に分って、奈良坂・般若寺二箇所の城郭に押寄せて、鬨を咄(ドツ)とぞ作りける。大衆は歩立打物(カチダチウチモノ、徒歩で太刀をもつ)なり。官軍は馬にて懸廻し、懸廻し責めければ、・・・大衆数を盡して討たれにけり」(「平家物語」)。
「重衡朝臣は法華寺の鳥居の前に打立ちて、南都をやきはらふ。・・・行歩にも叶はぬ老僧、修学者、ちご共、女房、尼などは山階寺の天井の上に七百余人かくれのぼる。大仏殿の二かいのもこしの上には、千七百余人逃のぼりけり、敵をのぼせじとてはしごを引きてけり。十二月のはてにては有けり。風はげしくして、所々に懸たる火一にもえあひて、多くの堂舎にふきうつす。興福寺より始て、東金堂、西金堂、南圓堂、七重の塔、二階楼門、しゅろう、経蔵、三面僧房、四面廻廊、元興寺、法華寺、やくし寺迄やけて後、西の風いよいよ吹ければ、大仏でんへ吹うつす。猛火もえ近附くに随ひて、逃上る所の千七百余人の輩、叫喚大叫喚、天をひヾかし、地をうごかす。何とてか一人も助かるべき、焼死にけり。」(「平家物語」)。
「官軍南京ニ入り、堂塔僧坊等ヲ焼クト云々。東大興福ノ両寺、已ニ煙卜化スト云々。弾指スべシ弾指スべシ」(十二月廿九日)(「明月記」)。
「阿波国の住人の民部大夫の成良」(田口成良)が先陣(「山槐記」)。
12月26日
・「佐々木の五郎義清、囚人として兄盛綱に召し預けらる。これ早河合戦の時、渋谷庄司に属き、殊に射奉るが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十六日、甲辰。佐々木五郎義清が囚人として兄(佐々木)盛綱に預けられた。義清は早河合戦の時、渋谷庄司(東国)に従い、弓を向け申したからである。」。
つづく
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