元暦2/文治元(1185)年
11月24日
〈『源平盛衰記』にある阿証房上人の話;内裏女房の左衝門佐〉
上人が一條万里小路あたりをたまたま通り過ぎると、あまたの武士がものものしく門前を固めている邸宅が見られた。なにごとかと眺めていると、下腹巻に烏帽子を被り、太刀を帯びた武士が梧竹(きりたけ)に鳳凰の文様を織った小袖を着た5、6歳の男の児を担いで門から出て来た。武士たちはこの童を担いで一條大路を足早に西へ向った。その後を乳母とおぼしい24、5歳の婦人が跣(はだし)のまま泣きながら遅れじとついて行った。さらにその後には、20余歳の母と思われる美しい女性が顔もよう隠さず、ふらふらと現心(うつしごころ)もなく歩いて行くのであった。
阿証房は、この頃、平家の子孫を武士が探し出して斬っていると言うのはこれだと思い、後をつけて行った。蓮台野の墓地の奥に着くと、童を担いで来た武士は、肩から童を降して汗を押し拭っていたが、後から走って来た武士は、なんらの会釈もなく童を取って抑え、膝の下に組み伏せると忽ち頸を切ってしまった。そして童の首を傍に転っていた五輪塔の地輪の上に据え、骸の方はそばの溝に捨てて帰り去った。阿証房は、この際末を親しく目撃し、なんでここまでついて来て心憂いことを見たのだろうと後悔したが、今となってはどうにもならないので、首の前で『阿弥陀経』を読誦し、後生を弔った。
やがて母と乳母は、汗と涙にまみれて現場に辿りついたが、母の方は首をとりかかえ、乳母の方は溝から亡骸を抱き上げ、二人とも悶絶してしまった。
やがて我に帰った二人の婦人は、身も世もないように泣き悲しんだが、遂に、阿証房に頼んで蓮台野の地蔵堂で出家した。上人は二人を長楽寺(祇園町、円山公園の東南)に伴い、懇(ねんごろ)に童の供養を果たしたが、母の方は、童の首と平生大事にしていた玩具の小車を並べ置き、恋しい時はこれを眺めて心を慰めていた。乳母の方は、余りの悲しさに打ちひしがれて命が絶えた。
供養がすむと、母親は、首と小車を懐に入れて長楽寺から出て南都に赴き、東大寺や興福寺の焼け跡を拝み廻った後、乞食のような恰好で難波の四天王寺に姿を現した。その西門で七日七夜、湯水を飲まず、断食精進した後、彼女は舟を傭い、難波の沖に漕ぎ出し、西に向って念仏を二、三百遍繰返した後、首と小車を懐に海中に身を投じた。この童は、三位中将・重衛の子で、女性の方は彼が八條堀河堂で最後の別れを惜しんだ内裏女房の左衝門佐であったと伝えている。
難波の沖に身を投じたと言うのは、その時分、四天王寺の西の海が極楽の東門に当たっており、その海に身を投げると、直ちに阿弥陀の浄土に迎えられると広く信じられていたためであって、『後拾遺往生伝』などにその実例が伝えられている。
左衛門佐に関するこの所伝がどこまで史実に即しているかは、甚だ疑問であるが、当時の平家の縁者に対する処分の一類型とみなすことができる。
〈平宗実の場合〉
平宗実は、重盛の子で、3歳の時、藤原経宗の猶子となったが、養子ではないため、姓は平朝臣のままであった。宗実は文筆に親しみ、文官の道を志した。7、8歳で元服し、治承2年(1178)に土佐守に任じられ、翌3年11月、常陸介に転じた。寿永2(1183)7月、宗実は、平家一門とは行を共にせず、都にとどまった。
時政による平孫狩りが始まると、後難を懼れた左大学経宗は、宗実を邸より追い出したので、彼は南都の俊乗坊重源を頼って行き、重源を戒師として出家した。重源は、彼を東大寺の油倉に籠居させた上で、頼朝に伺いを立てた。頼朝は、宗実は罪深くない上に、すでに出家もしているから重源の門弟のままにしておいて宜しいと沙汰した。そこで重源は、彼を高野山の蓮華谷別所の明遍僧都(信西の子)の許に送り、宗実は高野聖となって生蓮房と号した。(延慶本『平家物語』所伝)
『吾妻鏡』は、宗実は時政に捕えられたが、左大臣・経宗の申入れによって時政が処分を猶予した。頼朝は経宗が書状をもって懇請したので、宗実を宥免したと記している。
〈維盛の子、六代の場合〉
六代の母は、藤原成親の娘で建春門院に仕えた新大納言局。維盛は妻子を都に残し、単身西国へ赴いていた。
時政の入洛前後に維盛の室家は、息子の六代と娘一人を連れて姿を消し菖蒲谷にあった小さい房に隠れていた。12月中旬、ある女が維盛の妻が息子・娘と共に大覚寺の北の菖蒲谷に潜んでいると密告したので、六代は忽ち逮捕された。
菖蒲谷(右京区嵯峨北ノ段町)は、高雄の神護寺の寺域の南堺をなし、直線距離では1.3km距離にあった。六代の乳母の女房は、神護寺に馳け込み、文覚上人に会い、六代を助け、上人の弟子にしてくれるよう懇願した。義侠心に篤い文覚は、時政の許に赴いて処分を猶予するよう頼むと共に、弟子を飛脚として頼朝の許に遺した。
12月24日、鎌倉に到着したこの飛脚が頼朝に対して述べた口上は、
「故維盛卿の嫡男六代公は、門弟たるのところ、已(すで)に梟罪せられんと欲す。彼の党類悉く追討せられ畢んぬ。此の如き少生の者は、縦(たと)い赦し冠かると雖も、何事か看らんや。就中(なかんずく)、祖父内府(重盛)は、貴辺に於いて芳心を尽さる。且つは彼の功に募り、且つは文覚に優ぜられ、預け給はるべきかと、云々。」(『吾妻鏡』)
頼朝は、「六代は、平将軍の正統である。今は少年であっても、いずれ成人となる。その時になってどういう考えを抱くか分からない。しかし文覚上人の申状は黙止するわけには行かない。どうすべきか進退谷(きわま)った。」と言い、諾否の返事をしぶった。しかし使者の僧が再三懇望したため、しばらく六代の身柄を文覚上人に預けおくようにとの書状を時政に遺し、六代の命はひと先ず助かった。
六代のその後。
『平家物語』巻12「六代斬られの事」
文治5年春、六代(16歳)は頼朝の疑念を恐れる母の勧めによって出家し、高野山、後に高雄神護寺に入って三位禅師と称した。文覚が、建久10年(1199)正月に頼朝が没した直後、高倉天皇第二皇子を皇位につけようと図って発覚、逮捕されて隠岐国へ流される(3月)。この事件によって六代は、鎌倉殿により、「さる人の子なり。さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」、とて関東に召喚される途次、相模国田越河のほとりで斬られる。
しかし、このとき文覚が流されたのは佐渡であり、六代の処刑は前年(建久9年)2月5日で、まだ頼朝生存中のことであるなどの改変が目立つ。
「今日北條殿入洛すと。行家・義経叛逆の事、二品欝陶の趣、師中納言具に以て奏達す。仍って今日條々の沙汰有り。慥に尋ね索むべきの由宣下せらる。その状に云く、文治元年十一月二十五日 宣旨 前の備前の守源行家・前の伊豫の守同義経、恣に野心を挟み、遂に西海に赴きをはんぬ。而るに摂津の国に於いて纜を解くの間、忽ち逆風の難に逢う。誠にこれ一天の譴なり。漂没するの間、その説有りと雖も、命を殞すの実猶疑い無きに非ず。早く従二位源朝臣に仰せ、不日に在所を尋ね捜し、宜しくその身を捉え搦めしむべし。 蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る)」(「吾妻鏡」同日条)。
0 件のコメント:
コメントを投稿