文治2(1186)年
閏7月10日
・義経の小舎人童五郎丸の捕縛と、6月20日頃に義経が叡山に隠れていたこと、叡山僧俊章・承意・仲教の与同を白状したと鎌倉に伝わる。(『吾妻鏡』閏7月10日)
「左馬の頭の飛脚到来す。状に云く、前の伊豫の守の小舎人童五郎丸を搦め、子細を召し問うの処、去る六月二十日の比に至るまで、山上に隠居し候の旨、申し上げ候所なり。件の白状の如きは、叡山の悪僧俊章・承意・仲教等同心与力せしむてえり。仍ってその由を座主並びに殿法印に相触れをはんぬ。また奏聞を経る所なりと。また義経は、殿三位中将殿(良経)と同名たるに依って、義行と改めらるるの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。
閏7月11日
・比叡山僧の中厳、逃亡。
「能保朝臣使者を以て申して云く、山の悪僧中厳等逃げ脱しをはんぬ。左右を申すに能わずと。」(「玉葉」同日条)。
閏7月12日
・無動寺僧の財修、逃亡。
閏7月16日
・『吾妻鏡』閏7月26日条によれば、五郎丸の自白に基づき、義経与力の三悪僧を差し出すよう座主全玄にふれたところ、逃亡したと言う。しかし、閏7月11日までは山にいたという風聞があったので、後白河に奏上したところ、この日に公卿会議が開かれた。その結果、比叡山山上・横河・末寺・荘園など比叡山関係すべてにふれて、三悪僧を召し進ずべきことが、座主以下の僧綱に命じられた。ただし、三悪僧の縁者3人を捕らえて検非違使に下した。また、軍兵を比叡山に送って捜索することも検討されたが、それは比叡山が滅亡するという理由で回避された。
以上の報告が一条能保から鎌倉にもたらされ、こうした事情を頼朝に伝えることを吉田経房に命じた閏7月17日の院宣ももたらされた。それによれば、三悪僧捜索の宣旨が、かれらに所縁のある近江と北陸道に下されたという。なお、この宣旨を下すことは源通親の意見であった(『玉葉』閏7月16日条)。
こうしたなかで、閏7月21日には、三悪僧のうち仲教が捕らえられ(『玉葉』閏7月21日条)、また、ほぼ同時に仲教と承意の母も捕らえられた(『吾妻鏡』8月3日条)。
「この日院の殿上に於いて、義行山門に逃げ隠れるの事を定めらる。即ち定長を以て先ず座主以下に問う(・・・)。各々申して云く、この次第遁れ申す所無し。凡そ悪僧の習い、貫首長吏の下知に従わず。但しこの條に於いては、衆徒と雖も、爭か朝家の大事を顧みざるや。逐電の條、偏に所司等不覚の致す所なり。・・・能保申して云く、山門の衆徒朝憲を忘れ容穏するの條、甚だ不当なり。土肥の二郎實平の如きの武士等、偏に坂本を堅め山上を捜すべきの由、申せしむと雖も、様々の計略を廻らし制止を加う所なり。座主已下使の廰に付け責めらるれば、盍ぞ出来せんやとてえり。・・・余座主已下に仰せて云く、一山の大事これに過ぐべからず。武士等の欝す所至極の理なり。慥に期日(二十ヶ日)を限り、彼の悪徒を召し進すべし。満山心を同せば、何ぞその功を成さざらんや。座主早く門徒僧綱等を引率し、不日に登山を企て、具に衆徒に仰せ、殊に贔屓すべし。」(「玉葉」同日条)。
「山の悪僧の事、御教書を座主以下、西塔院主・横川無動寺長吏等の許に遣わす。兼忠これを書く。父納言案文を送り見て、少々事を改め直しこれを遣わす。」(「玉葉」同17日条)。
閏7月19日
・在京中の大江広元の活動。後白河から相談を受け、特に播磨・備前両国における武士の荘園公領押領問題を糾明するよう仰せを受けた広元は、「二品御腹心専一の者」すなわち頼朝の腹心としてもっとも重要な立場にあることを朝廷より認知された。
「因幡の前司廣元関東に帰参す。去る比上洛する所なり。諸国の守護・地頭條々の事、委細下問に預かり、所存を言上しをはんぬ。また播磨・備前両国の武士妨げ注文これを給い、糺明すべきの由仰せを蒙る。これ廣元は二品の御腹心専一の者たるの由、去る月十四日公家の御沙汰に及ぶ。面目の至る所なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
閏7月22日
・「前の廷尉平康頼法師恩沢に浴す。阿波の国麻殖保の保司(元平氏家人、散位)に為すべきの旨仰せらるる所なり。故左典厩(義朝)の墳墓、尾張の国野間庄に在り。没後を訪い奉るに人無し。ただ荊棘の掩う所なり。而るにこの康頼任中その国に赴く時、水田三十町を寄付し、小堂を建て、六口の僧をして不断念仏を修せしむと。仍って件の功に酬いられんが為此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
閏7月25日
・義経の郎党伊勢三郎、伊勢にて討死。
閏7月29日
・義経の愛妾静(19)、安達新三郎の家で男子を出産。頼朝の命を受けた安達新三郎が由比浦に捨てる。政子は頼朝に救済を訴えたが、叶わなかった。
「その子もし女子たらば、早く母に給うべし。男子たるに於いては、今襁褓の内に在りと雖も、爭か将来を怖畏せざらんや。未熟の時命を断つ條宜しかるべきの由治定す。仍って今日安達の新三郎に仰せ、由比浦に棄てしむ。・・・この事、御台所御愁歎。これを宥め申さると雖も叶わずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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