建久3(1192)年
7月12日
・頼朝、征夷大将軍となる
『山槐記』建久3年7月9日・12日条によれば、発議は関白九条兼実で、家司藤原(葉室)宗頼を『山槐記』の記主藤原(中山)忠親に遣わしその是非を尋ねた。その趣旨は、頼朝の「前右大将」の号を改め、「大将軍」にしたいとのことであった。この時、中原師直・中原師尚(もろひさ)に調査させた先例を提示している。忠親は、不快な近例(平宗盛の惣官、木曾義仲の征東大将軍)を除いて征夷大将軍がよいと返事した。そして同12日に再び宗頼が兼実の使者として来訪し、補任する方途を諮問してきた。不快な近例が宣旨での補任であったため除目で補任することとし、勅任・奏任どちらがよいかとのことであった。忠親は、本官本位の尊卑に拠るべきではないこと、補任される官職によるべきことを返事している。
この夜、除目が行われ、頼朝は勅任で征夷大将軍に補任された。
ようやく頼朝の希望する「朝の大将軍」に補任された。これ以降、政所下文の冒頭は「征夷大将軍家政所下」に変更されている。
戦時から平時への移行にあたって、御家人制を鎌倉殿のもとに再編・強化し、武士社会の名誉観に基づいて鎌倉殿の権威を確立させようとする頼朝の「政治」は、奥州合戦に続き、「大将軍」の申請、征夷大将軍任官、政所下文への切り替えという建久年間の諸政策にも貫かれていた。
「かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせたれにけらば、王家の権いよいよおとろへにき。諸国に守護をおきて、国司の威をおさへしかば、吏務と云こと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は、(中略)建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき」(「神皇正統記」)。
7月19日
・藤原師長(55)没
7月20日
・京都守護一条能保の使者が鎌倉に到着、同12日に頼朝が征夷大将軍に補任されたことおよびその除書(じしょ、辞令)を持した勅使の下向を伝えてきた。
7月26日
・院庁の左史生中原泰定、勅使の庁官肥後介中原景良と共に鎌倉に参着、鶴岡八幡宮にて除書を進上したい旨伝えてきた。京都では参内して補任されるが、鎌倉で鶴岡八幡宮を内裏に摸して行ったと考えられる。頼朝は、三浦義澄に比企能員・和田宗実(義盛弟)を添えて八幡宮に遣わし除書を受け取らせた。
8月5日
・源頼朝、将軍家政所(別当大江広元、源邦業)を開設。所領安堵状は政所からの下文にする方針。千葉介常胤・小山介朝政など元在庁の大豪族は反発。千葉常胤・小山朝政に対しては特別に従来通りの花押入りの下文を発給し、政所下文に添える。
幕府支配のあり方を人格的なものから組織的なものへと整備強化しようとする頼朝の方針。
「将軍に補せしめ給うの後、今日政所始め。則ち渡御す。 家司 別当 前の因幡の守中原朝臣廣元、前の下総の守源朝臣邦業 令明部少丞藤原朝臣行政 案主 藤井俊長 知家事 中原光家 大夫屬入道善信・筑後権の守俊兼・民部の丞盛時・籐の判官代邦通・前の隼人の佐康時・前の豊前の介實俊、前の右京の進仲業等その座に候ず。千葉の介常胤先ず御下文を給わる。而して御上階以前は、御判を下文に載せられをはんぬ。政所を始め置かるるの後は、これを召し返され、政所下文を成さるるの処、常胤頗る確執す。政所下文と謂うは家司等の署名なり。後鑒に備え難し。常胤が分に於いては、別に御判を副え置かられば、子孫万代亀鏡と為すべきの由これを申請す。仍って所望の如しと。 御判を載せらる 下す 下総の国住人常胤 早く相伝の所領、新給所々の地頭職を領掌すべき事 ・・・仍って相伝の所領、また軍賞に依って充て給わる所々等の地頭職、政所下文を成し給わる所なり。その状に任せ、子孫に至るまで相違有るべからずの状件の如し。 建久三年八月五日」(「吾妻鏡」同日条)。
8月9日
・頼朝の室政子、千幡(次子・実朝)を生む(「吾妻鏡」同日条)。乳付(ちつけ、乳母)には、北条時政の娘で政子の妹にあたる阿波局(頼朝の弟阿野全成の室)が召された。以降、実朝は北条氏の一族に囲まれて成長していく。
義時(30)以下六人、護刀を献ず。
「若君二夜の事は武蔵の守・三浦の介沙汰すと。」(「吾妻鏡」同10日条)。
「三夜の事は信濃の守・籐九郎盛長沙汰すと。」(「吾妻鏡」同11日条)。
「四夜の事は千葉の介常胤これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
「五夜の事は下河邊の庄司行平沙汰すと。」(「吾妻鏡」同13日条)。
8月14日
・この頃、相撲は放生会などで奉納され、相撲人を御家人自らやその郎等、あるいは一般庶民などが務めている。『吾妻鏡』建久3年8月14日条には八番の取り組みが見え、鬼王や千手王・王鶴などの童名のほか、鶴次郎・荒次郎・紀六・小中太などの仮名(けみょう)のようなもの、大武正郎や白河黒法師、藤塚目・小熊紀太など職業相撲人らしき名前、荒瀬五郎・傔杖(けんじょう)太郎など御家人の郎等クラスの者たちの名前が見える。翌日・舞楽が奉納され、このときの舞童(ぶどう)の名前には、金王・滝楠・弥陀王・夜叉・観音・亀菊・良寿の8人が見える。
8月22日
「雑色成里は多年の功有り。仍って御気色快然たり。頗る御家人と勝劣無し。而るに去る夏比他界す。殊に御歎息。その子孫を尋ねらるるの処、彼の子息成澤この事を伝え聞き、越中の国より参上す。今日始めて謁し奉る。直に憐愍の仰せを蒙る。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月24日
・頼朝が出かけて永福寺に池を掘らせる。
27日、頼朝が出かけて永福寺の堂前の池の立石のことを僧静玄に相談する。巌石数十個を積んで高い丘を作ったという。
つづく
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