建久4(1193)年
・この年、島津家の祖・近衛家家司惟宗(これむね)忠久、日向島津庄地頭に任命。更に、薩摩・大隅・日向3州の守護職に任命。この時、庄名を名字とし、以後島津忠久と称する。後、薩隅日3州では、守護島津家を中心に島津一門衆・国人領主の争い絶えず。
1月1日
「将軍家鶴岡八幡宮に御参り。還御の後椀飯有り。千葉の介常胤これを沙汰す。源氏並びに江間殿及び御家人等庭上に候ず。時刻に将軍家出御す。上総の介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。相模の守惟義御劔を持参す。八田右衛門の尉知家は御調度。梶原左衛門の尉景季御行騰を持参す。千葉の大夫胤頼砂金を役す。千葉の介常胤は鷲の羽。次いで御馬五疋を引き進す。常胤が子息三人・孫子二人これを引く。所謂師常・胤信・胤道・胤秀等なり。また今日人々の座敷の次第を定められ、御自筆の式目を下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月14日
「高雄の文覺上人伝え申して云く、[東大寺の造営頗る功を終え難きの由、舜乗房これを愁訴し申す。旧院の御時、料米二万石を寄せらるると雖も、国司ただ利潤を貪り、敢えて沙汰を致さず。今に於いては、関東執り申さしめ給わざれば成し難きかと。仍って旧院御分国の内備前の国を文覺房に預けられ、その所済を以て彼の寺の営作に給わるべきの由、早く京都に申さるべし。また]顛倒して保元以後新立する庄を進し、土御門殿に於いて奏達を致すべきの趣沙汰有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「播磨の国、備前の国は院分にてありしを、上人二人にたびて成もやり候はぬ。東大寺いそぎ造営候べし。東寺は弘法大師の御建立。鎮護国家左右無く候。寺もなきが如くに成り候をつくられ候べし。其に過たる御追善やは候べきとて、東寺の文覺房、東大寺の俊乗房とに、播磨は文覺、備前は俊乗に給はせてけり。東大寺にはもとより周防の国はつきて有けれど、事もなりやらずとて加へ給はるるなり。」(「愚管抄」)。
「東大寺修造の事、文覺上人播磨の国を知行し奉行せしむべきの由、将軍家計らい申さしめ給うと。これ則ちその功未だ成らざるが故なり。」(「吾妻鏡」3月14日条)。
1月20日
・この日以降4月までに『玄玉和歌集』(隆寛撰か)成立か。定家は32首入選。
1月20日
「三浦の介が一族等、義澄が支配に背くの由その聞こえ有るに依って、早く叙用せしむべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月27日
・大江広元、二階堂行政とともに安房平太以下の輩への新恩給与を奉行。
2月
・この月、鶴岡八幡宮寺に舞殿を建立
2月9日
・この月、武蔵の国丹(たん)党と児玉党の間に争いがおこり、合戦しようとしているとの噂。頼朝は畠山重忠に鎮撫を命じ、無事に収めさせる。
「武蔵の国丹・兒玉の党類確執の事有り。すでに合戦に及ばんと欲するの由その聞こえ有るに依って、相鎮むべきの旨、畠山の次郎重忠に仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「・・・制止を加うるに依って、両党和平し互いに退くと。」(「吾妻鏡」同18日条)。
2月13日
・藤原定家(32)、母美福門院加賀(70余歳)死す。俊成は80歳。
殷富門院大輔より弔歌、定家、返歌する。
この年の秋、定家は
たまゆらの露の涕(なみだ)もとどまらず亡き人恋ふる屋戸のあきかぜ 建久四年秋
と詠む。
『新古今集』に、「母みまかりにける秋、野分しける日、もと住みはべりけるところにまかりて」の詞書で撰入されている。
定家の私家集『拾遺愚草』には、「秋、野分せし日、五条にまかりて、帰るとて」として収め、俊成の「秋になり風のすずしくかはるにもなみだの露ぞしのに散りける」の返しも載せている。
俊成の家集『長秋集』にも、「七月九日、秋風あらく吹き雨そそぎける日、左少将まうできて、帰るとて書きおきける」として記されている。
五条は、俊成の家で、定家はここで生れ20代始め頃まで父母とともに在った。〈たまゆら〉は玉響、万葉語であるが、勅撰集には、新古今撰入の定家のこの歌ではじめて使われている。安東次男氏『藤原定家』で、「ただちに歌を哀傷のものとなしえぬ作者の透明な気分も、「の」と置いた語法には微妙に読みとれるように思うが、そういうことは歌にとってやや大切なことである。一文法上の問題にとどまらない」として、定家以前には〈たまゆら〉がほとんどで副詞的意味に限定して使われていたのを、定家は、たまゆらを名詞として、語のもつ本来のイメージを重んじて使っていることを鋭く指摘。
九条良経の定家母への弔問の歌(3月26日)
春霞かすみし空のなごりさへけふをかぎりの別れなりけり
定家の返歌
別れにし身の夕暮に雪消えてなべての春はうらみはててき
2月21日
・藤原公衡(36)没。右大臣公能の四男。母は藤原俊成の妹。従三位左近中将。
2月23日
・足利義兼及び室北条時子、鶴岡八幡宮に社参して一切経の書写を始める。
2月25日
・北条時定(49)、没。
「北條殿の腹心なり。且つは彼の眼代として、且つは御使いとして在京し、多く勲功を施しをはんぬ。・・・北條の介時兼の男。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
2月26日
・記録所評定で銭貨流通の是非を論じる(『玉葉』建久4年2月26日条)。記録所が兼実の政策に対する諮問機関として機能するようになっていった。
2月28日
「京都の警衛勤厚の御家人等は、その賞関東の近士に超過すべきの趣これを仰せ下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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