建久6(1195)年
7月4日
・稲毛重成の妻(北条時政の娘、義時の姉妹)、没。
6月28日、稲毛重成は頼朝に従っての上洛の帰り、美濃国において妻の危篤が飛脚で伝えられると、頼朝より黒い駿馬を賜り、妻のもとに急いだ。拝領した馬は龍のようで、7月1日には武蔵国に到着。馬は「三日黒」と名付けられた。しかし、まもなく妻は病死したため、重成は別離の愁いに耐え切れず、勇敢の心も緩んだので出家してしまった。重成は相模川に橋を架けて妻の作善(さぜん)とした。ちなみにこの橋の落成供養の帰りの落馬が原因で頼朝は亡くなる。
7月8日
・頼朝ら、京都から鎌倉に帰着(「吾妻鏡」同日条)。
この上洛を境に、頼朝の発給する政所下文の様式に変化が見られる。征夷大将軍に補任されて以来、冒頭は「征夷大将軍家政所下」であったが、「前右大将家政所下」に変化する。征夷大将軍を頼朝が辞めたのか、それとも辞めずに「前右大将」に呼称を変更したのか、両説が存在する。どちらにしても頼朝の考えが変化したと考えられる。すなわち、二度目の上洛を契機として、「朝の大将軍」よりも、禁中の警固や行幸の警備を担当する、天皇を守る警備隊長(近衛府の長官・大将)へと変わった。
7月10日
・北条時政・義時(33)、軽服(きようふく)のため伊豆に下向。上洛に供奉した御家人の多くが帰国。
8月8日
・入内している九条兼実の娘の任子、皇女(昇子)を出産。
「中宮御産とののしりけり。いかばかりかは御祈前代にも過たりけり。されど皇女(昇子内親王)をうみまいらせられて、殿は口をしくをぼしけり。」(「愚管抄」)。
8月8日
・殿上の当番で参内した藤原長兼は、後鳥羽天皇が弓の遊びをしていたので、書射は六芸の一つであるが、文をもって先となさなければと批判している(『三長記』)
藤原定家も殿上人であったが、和歌に特別な関心を向けていなかった後鳥羽との接点はあまりなかったようである。
8月10日
・この月、出家していた、熊谷次郎直実法師が、京都より熊谷郷に戻る。途中、「逆さ馬」「十念質入れ」などの行い。東海道藤枝宿に、熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後、草庵を建て住む。
この日、鎌倉に来て頼朝と面会。直実は、厭離穢土・欣求浄土の趣旨を申し、ついで兵法の心得や合戦の故実を話した。身は法体であるが、心は真俗を兼ねており、これらのことを聴いたもので感嘆しない者はいなかった。今日、武蔵国に下向したという(『吾妻鏡』)。
8月13日
・北条時政・義時(33)、伊豆より帰参。
8月15日
・鶴岡放生会(「吾妻鏡」同日条)。
16日、頼朝、鶴岡参詣。馬場の流鏑馬、射手16騎(「吾妻鏡」同日条)。
8月19日
・頼朝の歯の病気が再発。
26日、頼朝の歯の具合が少し良くなったので、船で三浦に渡って遊覧する。
8月28日
・幕府、奥羽など諸国荘園の地頭に対し強窃盗・博打などの犯人の隠匿を禁じる(「吾妻鏡」同日条)。
9月3日
・陸奥国平泉の寺塔は特に修理を加えるよう葛西清重・伊沢家景に命じる。泰衡が誅戮されても堂舎は元の様に維持せよと前から命じれていた。
9月9日
・鶴岡八幡宮の神事。流鏑馬、競馬(くらべうま)、相撲などが行われた。
9月23日
・大江広元、御家人への新恩沙汰を奉行。
9月28日
・前律師忠快が三浦義澄の申請により三浦に向かう。
9月29日
・鷹狩禁止が諸国御家人に命じられる。
9月29日
・奥州惣奉行を置く。奥州惣奉行として戦後統治にあたった葛西清重・伊沢家景は、頼朝から故藤原秀衡の後家(藤原基成の娘)に「殊に憐憫を加ふべきの由」(『吾妻鏡』建久6年9月29日条)を命じられてる。秀衡の後家に対する特別な保護政策は、奥州藤原氏に属していた旧勢力による報復や再反乱を未然に防ぐ意義をもっていたと考えられる。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿