大正12(1923)年
9月3日
〈1100の証言;江東区/丸八橋・新開橋〉
浦辺政雄〔当時16歳〕
9月3日は朝8時ころから、父とともに〔大島6丁目から〕まず浜町へ兄を捜しにいきました。丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、パパパパバーンと、ダダダーシという音がしたわけです。何かしらと思って行くと、橋のむこう側でちょうど軍隊が20人ぐらい、「気をつけー」「右向け-右」って、整列して鉄砲を担いで行進して移動するところでした。
のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。あれは銅線だから、軟らかくて縛れるんです。後ろ手に縛って、川のなかに蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。〔略〕左側のはまだ撃たれたばっかりだから、皆のたうって。血が出ているさかりなんです。まっ赤。血が溶けずに漂っているわけです。右側のは先にやったんでしょう、血も薄れていました。
「なんだか知らぬが、むごいこと」と、息をのみました。〔略〕岸の北側につき落として、南側から撃ったんです。
小名木川ぞいに西へ行くと次は進開橋です。その手前、40~50メートル、せいぜい100メートルのところでも同じような銃殺体、10人ほどを見ました。それはもう時間が1時間やそこらたったんでしょう。血も何もありませんからね。川のなかが同じ状態ですからね、ここでやって、それから丸八橋でやったんでしょう。このあたりは全然焼けてないですからね。死体が浮いているって、その朝鮮の人だけですよ。確かめるまもないし、とにかくむごいことだと。だけど私たちは兄を、兄を、というわけで、先へ行ったんです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
高梨輝憲〔深川区猿江裏町30番地(現・猿江2丁目2番地)で被災〕
〔3日〕巡査と別れた私は、さきに来た道を進開橋まで引返えした。ふと橋の上を見ると大勢人だかりがして、何やらざわめいている様子、私は何事かと思って行って見ると、橋の欄干に一人の男が後手に縛られて寄りかかっていた。そのまわりに騎兵の襟章をつけた軍人が3人ばかり立っていた。それを取りかこんでいる群集は口々に「この野郎朝鮮人だ、やっつけてしまえ」と罵っている。そのうち軍人の一人は、いきなり軍刀を抜きはらいその男の頭上目がけて斬りつけた。途端に鮮血がさっとほとばしった。斬られた男は「うー」と唸ったがそれ以上の声は立てなかった。その筈である。男はこの時までに既に散々いためつけられてなかば失神状態になっていたからである。軍人は斬りつけるとすぐ両足をかかえて欄干ごしに川の中へ投げこんでしまった。技げこまれた男は一旦沈んだが、やがて顔を水面に出して浮きあがった。見ると長い頭髪が顔面に垂れさがり、血潮がそれにつたわって顔いっぱいに染め、さも怨めしそうな形相をしてにらんでいるかのように見えた。それは芝居でやる四谷怪談戸板流しの場面を想起させるほどの凄惨さであった。
私は図らずもこのような凄惨な状景を見た。しかし凄惨な状景はこれだけではなかった。進開橋から五之橋の方へ向って少し行ったところで、またさきに劣らないほどの惨虐な場面を見た。
3人の男がこれも後手に縛られたまま、全身血まみれになって道路にころがっている。側らには騎兵銃に剣を立てた軍人が5、6人立っていた。騎兵銃は三八式歩兵銃とはちがい、銃に剣が装着してあるから、剣を立てればそのまま銃剣になるのである。ここにも群集があつまり、倒れている男を丸太や鉄棒で殴りつけていた。男は既に人事不省になっていたらしいが、それでも苦しさのためか、時々うめきながら躯を動かすと「この野郎まだ生きていやがる」と罵りながら、更に強く殴打した。軍人はそれを黙って見ている。私は倒れている一人の男に近づいて見ると、男の尻のあたりに銃剣で突いたらしい生々しい創あとがあった。
〔略〕大正11、12年頃、中国浙江省附近から多数の中国人が、中国産の扇子や蝋石細工の置物などをもって、行商人として来日していた。苦カと称する労働者も多くやって来た。その労働者は主に深川辺で集団生活を営なみ、荷揚げ人夫などをして働いていた。そしてこれらの中国人はいずれも支那服を着ていたから、一見して中国人であることがわかった。
〔略〕進開橋付近の路上で虐殺された男たちの服装を見たら、それは私と仲好くしていた中国人の服装と同じであった。当時、思慮のない日本人は朝鮮人暴動説におびえ、朝鮮人、中国人の見境いもなく、やたらに異民族を殺害したものである。
(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)
陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後4時頃、大島町丸八橋付近で、野重1ノ3砲兵6名が朝鮮人6名を射殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)
〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉
米川実男〔当時21歳〕
〔3日〕朝鮮人の来襲の話はデマだということが分かったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮の感に打たれた。
食うものは全くなくなった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ2俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何かと見ると、朝鮮人が2人電柱に縛りつけられているのであった。(1924年8月稿)
(「避難民の一人として」関東大震災を記録する会編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)
〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
竹内重雄〔画家。当時13歳。大井町1105で被災〕
その翌日〔3日〕は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が2千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき、戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は13歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿