1907(明治40)年
7月27日
(漱石)
「七月二十七日(土)、暑くなる。
最高気温は、七月二十七日(土)二十八・九度、二十八日(日)二十九・四度、二十九日(月)二十九・七庇。七月三十日(火)から八月十四日(水)まで、三十度前後の日続く。」(荒正人、前掲書)
7月28日
日露、通商航海条約・漁業協約調印。
7月28日
新詩社の九州旅行。
鉄幹以外は全て学生。太田正雄と北原白秋と平野万里が数え23歳、吉井勇は22歳。
旅行の紀行文は「東京二六新報」に掲載する約束があって、5人がかわるがわる無署名で執筆。「五足の靴」と題されて、8月7日から連載。
7月28日、東京を出発。
30日、厳島神社に参詣し、下関の川卯という旅館に泊る。
31日、福岡に着き、西公園の吉原という茶屋で「明星」読者による福岡県文学同好会主催の歓迎会。参加者26名。記念写真では、平野万里と太田正雄は霜降りの学生服、北原白秋と吉井勇は黒の学生服、鉄幹は黒の背広を着ている。この日は中洲の川丈という宿に宿泊。
翌8月1日、博多湾のあたりを見物し、海水浴。蒙古軍の来襲、倭寇の根拠地なる博多柳町の遊廊等についても紀行文は触れている。
8月2日、柳川の北原白秋の生家に着く。
「築後の柳河まで来た。海を控へて水田と川の多い土地だ。北原氏に宿る。即ち我等が一人なるH生の家だ。H家は東京から客人を連れて長男が帰ると云ふので、室内の装飾やら、寝具の新調やら、非常な騒ぎをして歓待の準備が頗る整頓してゐる。それに我等に面会のため他郡から出掛けて泊り込む者もあるので、台所では祭礼の日のやうな混雑だ。裏の幾十間と続く酒倉では、多くの倉男が眠むたげな調子で唄ひながら、渋を採るため青柿を呑気に臼で春く。宛ら母屋の騒ぎとは別世界だ」
当時北原家は衰運に向ってはいたものの、筑後で屈指の酒造家であった。特にこの家では「県下八女郡の米の精良なるを選んで、之を四十度も舂(つ)き臼げた上で製した」「潮」というのか知られた酒であった。
翌日、一行は酒倉で色々と説明を聞き、そこを出て運河沿いの沖端やそれに続く柳川の本道を歩いた。そこは昔の城下の気分の残った廃市の感じがあった。町の真中に真直ぐに続く掘割の両側には柳が植わっていた。そして上方風の店が掘割に向って並び、夕方には人々が縁台を堀ばたに持ち出して団扇を使っていた。その掘割を小舟で下って町外れに出ると、脚か真菰(まこも)の生え繁った沼の間に自ら水路があった。舟は橋の下を通り、橋のほとりに灯の明るくついた家があった。
一行がまた戻って来ると、北原が「ばあやさん」と呼ぶ老女中が、浴衣を出して皆に着せてくれた。このばあやさんは、白秋について東京へ行っていた女中で、太田や吉井にも顔馴染みであった。
8月3日、雨の中、予定どおり佐賀に向う。筑後川を渡ったところで古風な鉄道馬車に乗り、それで佐賀まで揺られて行った。見ると、その馬車は数年前まで品川と新宿の間を走り、よく脱線することで知られていた鉄道馬車であった。吉井勇は通学の途次によく乗ったものだと言った。
佐賀では平地にある佐賀城址を一巡し、書店に入って新刊雑誌などを買った。北原は「早稲田文学」を読み、それがすっかり独歩や藤村の亜流である旅情的自然派の作品で埋められているのを見て、それを揶揄する戯詩を作った。
「明星」派のロマンチシズムは早稲田派の素朴な田舎臭さと対立していたので、北原も吉井も学籍は早稲田にありながら、「早稲田文学」系統の単調なリアリズムには同調し得なかった。
8月4日、一行は、松浦佐用姫や虹の松原で知られた肥前の唐津に着き、名護屋城址を訪れた。ここでー行は講演をした。太田正雄は喋っているうちに、「弁士簡単に」と弥次られた。-行は海路平戸へ出るコースを取り、船に乗るために佐世保へ出て1泊した。
8月6日、佐世保を出て、玄界灘を通り、午後2時に平戸に着き、その地に残っている阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、阿蘭陀灯台などを見た。ボウプラ(南瓜)、コブノエ(蜘蛛の巣)、トっチンギョウ(木の梢)など西洋語らしい言葉の残っているのも知った。
8月9日、2日ほど滞在した長崎を去って天草島へ向った。雨の中を東海岸の茂木まで2里の山道を乗合馬車に揺られた。そこから船で天草に渡った。富岡港で上陸し、富岡城址を見た。そこから天草の西海岸に沿って、荒磯伝いに大江に向って歩き、大江村で汚い木賃宿についた。
8月11日、大江村の天主堂に15年も住んでいる仏蘭西人のパーテル神父に逢った。神父は天草言葉を上手に使った。そこから牛深港に出て、三角港を経て島原に向った。そこで有馬城址を見て、そこからまた海に出て、熊本県の長洲の町に入り、8月15日、熊本に着いた。
これで九州西南部の南蛮文化の遺跡歴訪は終ったが、そのあと更に、16日阿蘇山に登り、17日熊本に戻って江津湖に遊び、18日は三池炭現を見学した。
8月21日、一行は再び柳川の北原家に落ちついて休養をとった。
このあと白秋は暫く自家に留り、平野万里は京都まで直行した。
鉄幹は太田正雄と吉井勇を伴って周防の徳山に下車し、彼の中兄赤松照幢が住職をしている徳応寺に立ち寄った。そこは鉄幹が数え17歳から3年間兄照幢の経営する徳山女学校の教師をしたところである。彼はそこの第1回卒業生の浅田信子という3歳年上の女性と3年後の明治25年東京で同棲し、2人の間に女の子が生れた。その子は40日で死に、鉄幹は信子とも別れた。その後、鉄幹は徳山女学校の第3回卒業生の林滝野と結婚した。鉄幹は太田、吉井の2人を伴って徳応寺に2日滞在後、京都に寄って3日ほど遊んで、8月31日に帰京した。
帰京してから、旅の費用を計算すると、約33日間の旅で1人35円の費用であった。35円は中等学校教員の月給に相当する額であった。
〈「明星」同人太田正雄(東京帝大医科大学学生、23歳)〉
明治18年、伊豆の伊東の近く、静岡県賀茂郡湯川村に、太物雑貨類の卸小売商をしている太田惣五郎と妻いとの三男として生れた。4歳のとき父を喪い、長姉よしとその夫惣兵衛に育てられた。13歳のとき上京して、本郷区西片町にある三姉たけの嫁ぎ先で判事をしていた斎藤十一郎方に寄寓し、独逸協会中学校に学う。この中学校は、東大の医科や法科に進む目的を持つ少年がドイツ語を学ぶために集る学校で、一高の入学率の高いことで知られていた。
数え17歳の頃から、次兄の円三と白山御殿町に建てられた太田家の住宅に住み、その頃からさまざまな文章を書きはじめ、自ら「地下一尺」という総題をつけた。それは詩、文、戯曲、感想、批評、紀行等を含むもので、それを彼は「地下一尺」第一、第二と編輯して保有した。彼はまた中学生時代に水彩画を三宅克己に学び、それに熱中して画家になろうと考えた。しかし斎藤家に嫁いでいた三姉たけが、弟に説いて医科に入ることを薦めたので、彼は独逸協会中学校を卒業すると第一高等学校第三部に入学した。第三部はドイツ語を主とし医科に進むコースである。
そこへ入ってからも彼は文科系のコースへ移ろうと思ったが、ドイツ語教授の岩元禎に転科を思いとどまらせた。明治39年、医科大学に進んだが、そのときもまた、独逸文学科へ進みたいと思ったが、家人の反対により志を果さなかった。この年から文集「地下一尺」に木下杢太郎というペンネームを用いた。翌明治40年にはこの「文集」は第20編に達していた。医科大学第1学年終りに近づいた明治40年3月、彼は「京都医科大学なる友人に与ふる書」というー文を竹下数太郎なるペンネームで「読売新聞医事附録」に掲載した。また同じ月から長田秀雄の紹介で「明星」に投稿し、以後毎月投稿を続けていた。彼は医科大学の先輩で文学者である森鴎外を尊敬し、ひそかに鴎外のあとを追っていた。しかしまだ鴎外に逢ったことはなかった。また彼は、明治38年に上田敏が出した訳詩集「海潮音」の熱心な読者であり、それ以後の上田敏の詩人として、翻訳家として、また学者としての仕事から目を離さなかった。
この項、つづく

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