1907(明治40)年
6月18日
日露漁業協約に関する両国全権委員の宣言書署名。9月11日告示。
6月19日
社会新聞社研究会。堺利彦、万国社会党内分派の例をひき分派は運動の発展を意味する、と分派包容説述べる。
6月19日
ベルリン、ハーグ万国平和会議の各国首席代表に宛てた主張文(「抗告詞」と呼ばれる)を印刷。
6月20日
「熊本評論」創刊。
松尾卯一太(資金提供)、新美卯一郎(発行兼編集人)ら。2人とも明治12年生まれ、「済々学」で修学、東京専門学校(早稲田)に在学したことがある。
6月20日
(漱石)
「六月二十日 (木)、中村蓊(古峡)来て、写真を欲しいと持ち帰る。鈴木三重吉・小宮豊隆来て (推定)、花壇を造る。(寺田寅彦は小宮豊隆宛葉書に、「先生も虞美人草の培養に御忙しくて當分面会謝絶の由」と書く。)
六月二十一日 (金)、森田草平来て、面会謝絶と知り帰る。生田長江来て二十円を貸出する。(推定) 鈴木三重吉宛手紙に、「本日虞美人草休業。癇癪が起ると妻君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬ってやり度い。」と洩らす。
六月二十二日 (土)、津田亀治郎(青楓)来て、『東京朝日新聞』に挿絵を書きたいので、世話して欲しいと云う。小宮豊隆帰郷する。
(生田に渡した20円))これは、森田草平が生田長江に頼んで借りたものと思われる。
八月九日 (金)森田草平宛手紙に、「先日生田君の取りに来たものは乍些少香奠として差上るから其積にて御使用下さい。別に何か上げやうと思つたら細君が申すにあれを上げた方がよからうとあるから小生も其儀に同意した譯である。」と書いている。森田草平は、この時疫病で女児を亡くしたのである。」(荒正人、前掲書)
6月20日
国木田独歩(34)、湯河原・中西屋に7月まで滞在。7月17日「湯ケ原ゆき」(「日本」連載)。
6月15日、独歩は久しぶりで龍土会に出席した。そして19日(雨声会3日目)、西園寺侯邸に行き、大町桂月、幸田露伴、塚原渋柿園、内田魯庵、島崎藤村とともに西園寺と同席した。この二度の外出で、彼は異常な疲労を覚え、衰弱がひどくなっているのを感じた。
20日、彼ば病気悪化を怖れ、前に行ったことのある湯河原温泉へ療養に出かけた。妻治子の母を連れて行ったが、義母は2日泊って帰った。
22日、義母と入れちかいに田山花袋がやって来た。旅行好きの花袋は、20日午後半日で湯本から箱根の裏山に登り、湖畔の姥子という村に1泊。独歩が湯河原にいることを知っていたので、22日朝、湯河原まで下りて来た。
独歩は明治30年春、花袋と2人で日光の照尊院に暮した時のことを思い出した。それから10年後のいま、2人は中年に達し、自分たちを迎えようとしている新時代に直面していた。
2人が湯に入ろうとして脱衣場へ来ると、そこに体重計があった。計ってみると、花袋は19貫600,独歩は10貫400しかなかった。花袋はもともと大男であったが、痩せていた。それが中年になったこの頃、急に太り出して20貫に近くなった。花袋の半分しか体重がないと分ると、独歩は淋しい顔をしたが、酒のついた夕食の膳に向うと、独歩は療養に来ていることを忘れたように元気になり、咳をしながらも文学論をつづけた。
花袋は1晩泊って帰り、独歩は療養がてらの軽い仕事として「趣味」に送るために10枚ほどの雑文をまとめようとしたが、それが重労働に感じられた。しかし仕事をせずにいることはできず、新聞「日本」のために10回分の随筆を書いた。それがそのまま宿賃になった。
7月、彼は温泉場での孤独の生活に耐えることができず、梅雨あげの酷暑の東京へ帰った。
〈独歩社の破産-独歩の病気と経済的窮乏〉
明治39年、独歩の経営していた独歩社は、いよいよ経営が行き詰って来ていた。前年8月、矢野龍渓の近事画報社から引きついだ定期刊行物は、「近事画報」「婦人画報」「新古文林」「少年少女智識画報」「問答雑誌」などいずれも採算のとれるものはなかった。この年、窮境を切り抜けようとして、「独習造果簡易法」「英和対訳米国一口噺」「男三郎獄中自白」などを出したが、傾きかかった社運を建て直すことはできなかった。
その上、彼の健康は目に見えて悪くなって来た。社員として画家の小杉未醒、満谷国四郎、文士吉江喬松、窪田通治のほか3,4人がいたが、彼等の多くは独歩の人柄を敬愛するものや、その作品の愛好者たちであったから、報酬が不足でも彼を棄て去るものはなかった。孤雁吉江喬松は、早稲田中学の英語教師をするかたわら、独歩社の仕事を助けていた。歌人の空穂窪田通治は、「文章世界」の歌壇の選者をしたりしながら傍ら独歩社の仕事をしていた。この頃独歩は窪田や吉江にほとんど報酬を払わず、時々電車賃が出されるだけであった。2人は、もう社に出ない方がよいことは分っていたが、折角ここまで独歩を助けて来たのだから、いよいよ解散という時まで辛抱しよう、と 語り合っていた。
明治40年、独歩は何等かの解決策を求めて、友人の田山花袋、小栗風葉、小杉未醒、「神戸新聞」主筆の弟・国木田収二をも呼び寄せて相談会を開いた。独歩は、定期刊行物の中で比較的成績のよい文芸雑誌「新古文林」をどこかの出版社に譲り渡して、社を救いたいと言った。 Lかしその引き受け手についての見当がつかなかった。会議は2日も3日も続いて、何の解決策も生れなかった。独歩は絶望した。
花袋は独歩がこういう出版業で苦労するよりも文筆の仕事に戻った方がよいと考え、独歩を励ました。
明治40年4月初め、独歩社は解散した。営業部の島田義三と編輯部の思水鷹見久太郎が「婦人画報」と「少年少女智識画報」とをもらって独立し東京社というのを作り、窪田空穂がそれを助けた。
独歩は、それまで住んでいた四谷伊賀町から、郊外の西大久保村の小さな家に移り住んだ。戸山ケ原に近い、人家のまばらな、雑木林のある山の手線沿線で、附近には、西大久保205番地に大町桂月と吉江喬松、150番地に水野葉舟、212番地に木城前田晃、百人町153番地には戸川秋骨など住んでいて、郊外の文士村という感じであった。
胸の病気は進行していて、ひどく衰えの見える時があった。
この頃、独歩は死という問題が頭から離れなかった。家の近くの鉄道で、あるとき病身の労働者の自殺らしい轢死事件があった。独歩は、労働者が病気になって働く力も失せて死ぬことを題材とし、「窮死」という小説を書き、「文芸倶楽部」に発表した。
独歩には、長女貞、長男虎雄、次女みどりの3人の子供があった。3年前に父専八が死んだ時に附き添った君子という看護婦が同居して働いていた。妻の治子は、その君子の態度から独歩と君子が関係のあることに気がついて暗い気特でいた。
独歩が矢野龍渓の経営する近事画報社に入った明治35年幕から、それを引きついで独歩社とし、それが破産した明治40年までの間、独歩の創作には、特にすぐれたものがなく、作品の数も少なかった。
独歩は、日清戦争当時、大分県佐伯町の鶴谷学館の教師をやめて上京し、「国民新聞」に入って以来、主としてジャーナリストとしてその生活を支えて来た。その職場は国民新聞社、報知新聞社、民声新報社、近事画報社、独歩社と断続してつながっていた。そして彼はその途中で失業状態にあった時に創作に熱中した。
明治34年から5年にかけて失業し、西園寺邸に寄萬したり、鎌倉に移り住んだりした時が最も彼の仕事に油の乗った頃で、この2年間に彼は「帰去来」、「牛肉と馬鈴薯」、「少年の悲哀」、「富岡先生」、「鎌倉夫人」、「酒中日記」、「空知川の岸辺」等の代表的な作品の大部分を書いた。
近事画報社に入って以後、彼は出版、編輯の事業に熱中し、創作は片手間の仕事となっていた。彼は人を使い、計画を立て、実践してその手応えを楽しむところの行動的な人間であった。しかし彼が創作を怠け、事業家として生きていたこの5年間に、彼の作家としての地位は、ほとんど自動的に高まり、一種の不動のものとなっていた。島崎藤村、夏目漱石、田山花袋等の仕事に注目が集まり、馳裁桃の時代が去ったという通念が文壇に生れたとき、明治38年に出た「独歩集」や39年に出た「運命」など、独歩の旧作を集めた創作集が、この新時代の文学傾向を体現したものとして人々の目を惹いた。
独歩社を解散し、郊外の西大久保の借家で療養生活に入り、米代にもこと欠くようになった前後から、一流の雑誌が彼の原稿を積極的に求めるようになっていた。独歩が作品を発表した雑誌はこれまで「小天地」、「教育界」、「婦人界」、「太平洋」、「中学世界」、「女学世界」のような二流三流の雑誌であり、たまに「文芸倶楽部」、「太陽」など博文館系の一流雑誌に、彼は田山花袋の縁で作品を発表することがあった。文芸雑誌として最も高い権威を持っていた「新小説」は彼に書く機会を与えなかった。明治38年に出した創作集「独歩集」は、自分の出版社から出した自費出版のようなもので、500部印刷されただけであった。
しかし、明治39年の終り頃から、「中央公論」、「太陽」、「文芸倶楽部」などが彼の作品を積極的に求めるようになった。
彼は、文士としての自分が時代の最前線に押し出されていることを見出した。このとき彼は数え37歳。彼は前年から続いて三度「中央公論」に書き、「文芸倶楽部」「太陽」等からも引きつづいて原稿の注文があった。新聞「日本」が彼の長編を載せる計画を立てた。新聞に連載小説を書くのは、はじめてのことだった。
(『日本文壇史』より)
6月21日
田山花袋(35)、箱根・姥子に1泊。22日湯河原に行き、中西屋に国木田独歩を見舞い1泊。「湯河原の一日」を書く。
6月21日
この日付けの漱石の鈴木三重吉宛て手紙
「本日『虞美人草』休業。癇癪が起ると妻君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬ってやりたい。しかし僕が切腹をしなければならないからまず我慢する。そうすると胃がわるくなって便秘して不愉快でたまらない。僕の妻は何だか人間のような心持ちがしない」
つづく

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