2026年1月19日月曜日

大杉栄とその時代年表(740) 1907(明治40)年7月20日~25日 第3次日韓協約(丁未七条約)調印 渡韓の林外相・伊藤統監が原案作成。同時に李完用首相との間で(秘密)覚書。 韓国内政を統監監視下に(法令の制定・高等官吏の任免は統監の承認が必要)。 司法、行政、警察権の「次官政治」(大審院長・大審院検事総長・各部次官に日本人採用)、 軍隊解散(1万5200人、うち漢城に9600余)等。

 

純宗(前列左より2人目)と訪韓時の日本皇太子嘉仁親王一行(1907年)

大杉栄とその時代年表(739) 1907(明治40)年7月13日~19日 1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。 秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。 女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。

1907(明治40)年

7月20日

韓国、午前10時、李完用に命じ旧帝・新帝欠席のまま譲位式挙行

夜、日本軍歩兵1個大隊、王宮侵入。譲位反対の宮内府大臣朴泳孝・内大臣兼侍従院卿李道宰逮捕(譲位式に侍衛隊に乱入させ諸大臣殺害を計画するが、事前に察知される)。9月3日、済州島に配流。

高宗は宮号「徳寿宮」を贈られ「徳寿宮高宗李太皇帝」となり(これまでの王宮慶運宮を徳寿宮と改称)、徳寿宮内に隠棲(実は幽閉)。

皇位を譲られた純宗は、皇后とともに徳寿宮を出て離宮であった昌徳宮(この時から正宮となる)に移る(11月)。

韓国内、騒乱続く。

政府軍侍衛隊兵士40人群集に加わる。日本人警官3人殺害。

姜泰鉉・宋栄根ら同友会会員らは決死隊を組織、警察署・駐在所・交番を襲撃。李完用邸・「国民新聞」社など焼打ち。

7月20日

福岡県の田川郡豊国炭鉱、大(ガス)爆発事故発生、365人が死亡。<明治期最大の炭鉱災害>

7月20日

この日付け漱石の野間真綱宛手紙

「小説はまだ書きおわらず。気の長いこと驚ろくべし。胃はよろしからず。旅行が致したし」


「七月二十日(土)、雨。胃の調子よくないが、旅行はしたいと思う。」(荒正人、前掲書)

7月21日

清国、軍諮処設置。

7月21日

日露、満州の鉄道接続につき条約署名。

7月21日

兵庫県灘五郷の酒樽職工300人、賃上げ要求し同盟罷業。

7月21日

大杉栄の堺利彦宛書簡(「監獄だより」七月七日付)が週刊『社会新聞』に掲載

7月22日

(漱石)

「七月二十二日(月)、来客の絶え間がない。鈴木三重吉、明日から房州に行くとのことである。謡をうたいたくなる。

七月二十三日(火)、野間真綱宛手紙に、「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。」と書く。

七月二十四日(水)、二十五日(木)、二十六日(金)頃、涼しい日続く。


最高気温、七月二十三日(火)三十度、二十四日(水)二十二・八度、二十五日(木)二十三度、二十六日(金)二十四・八度である。」(荒正人、前掲書)


7月23日

第1回満鉄社債400万ポンド、ロンドンで発行。

7月23日

ベルギーのレオポルド2世、ブリュージュ近郊のセーブルッケ新港の開港式。

7月24日

第3次日韓協約(丁未七条約)調印

渡韓の林外相・伊藤統監が原案作成。同時に李完用首相との間で(秘密)覚書。

韓国内政を統監監視下に(法令の制定・高等官吏の任免は統監の承認が必要)。

司法、行政、警察権の「次官政治」(大審院長・大審院検事総長・各部次官に日本人採用)、

軍隊解散(1万5200人、うち漢城に9600余)等。

送り込まれた日本人官吏:

宮内府次官小宮三保松、内部次官木内重四郎、法部次官倉富勇三郎、度支部次官荒井賢太郎、学部次官俵孫一、農商工部次官岡喜七郎、警視総監丸山重俊(西大門刑務所建設)、警務局長松井茂、総税務司署永浜盛三など。

7月24日

伊藤博文統監の要請により、歩兵第12旅団を朝鮮に増派。

9月26日、さらに臨時派遣騎兵隊4中隊を派遣。

7月24日

川上音二郎夫妻ら7人、パリ向け横浜発

7月24日

私立明治専門学校設立認可(福岡)。1909年7月開校。唯一の4年制工業専門学校。九州工業大学の前身。

7月24日

啄木、宮崎郁雨(大四郎)、並木翡翠(武雄、旧姓加藤)、吉野白村、岩崎白鯨(正)、西村彦次郎と大島流人(経男)送別の記念写真をとる。

7月25

第3次日韓協約公示。


つづく

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