2026年1月9日金曜日

大杉栄とその時代年表(730) 1907(明治40)年5月4日~13日 「大会が始まって間もないある日のこと、私は教会の控え室で1人の男に呼びとめられた。・・・私が話していた相手こそ、マクシム・ゴーリキーだった。・・・ 当時ゴーリキーはボリシェヴィキに近い立場にあった。いっしょにいたのは、有名な女優のアンドレーエヴァだった。私たちは連れ立ってロンドン見物に出かけた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

ゴーリキーとアンドレーエヴァ

大杉栄とその時代年表(729) 1907(明治40)年5月1日~3日 「人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉(うれ)しき義務である。」(漱石)「入社の辞」 より続く

1907(明治40)年

5月4日

啄木(21)、一家離散。

啄木は小樽の次姉トラ宅(夫が小樽駅長)へ向かう妹光子と共に渋民村を出る。

母は渋民村武道の知人宅(米田長四郎方)に、妻子・鏡子は盛岡の実家へ托した。父一禎は野辺地。

「或はこれこの美しき故郷と永久の別れにはあらじかとの念は、犇々と予が心を捲いて、静けく長閑けき駅の春、日は暖かけれど、予は骨の底のいと寒きを覚えたり。」(「日記」)

青森より陸奥丸にて函館に向う。

5日函館着。苜蓿(もくしゅく)社の人々に迎えられて青柳町四十五番地の松岡蕗堂の下宿先である和賀市蔵(峰雪、小学校教師)方に寄寓する。妹は中央小樽駅長である義兄山本千三郎・トラ夫妻の許に赴く。啄木は函館移住後雑誌「紅苜蓿(べにまごやし)」の編集に携わる。(函館には当時節子の父の長姉一方井なかが谷地頭七十一番地に、節子の父の従弟村上祐兵が青柳町四十四番地に居住していたが、啄木は妻がこれらの親戚と交際することを嫌悪した。)

11日~月末、苜蓿社同人沢田天峰(信太郎、箱館商業会議所主任職)の世話で、函館商業会議所臨時雇として同議員選挙有権者台帳作成。


5月4日

漱石「文藝の哲學的基礎」〔5月4日~6月4日『東京朝日新聞』27回。4月20日東京美術学校での講演の筆記を改めたもので、『文學論』の補遺のようなものである。〕

5月4日

日露漁業仮議定書締結。

5月5日

「ザーメンホフ博士とエスペラント(二) ザーメンホフ博士よりポロヴコ氏に送られたる私書の一節」(『日本エスペラント』)

5月6日

遣英答礼大使として伏見宮貞愛親王が訪英。

5月6日

大杉栄、午後7時、大阪に行く森近運平一家を、堺利彦、深尾韶、山川均、堺為子、堀保子、堺真柄、篠田たか、深尾みち、小川かつとともに新橋駅で見送る。その日の午後、列車を待つ間、新橋駅前の旅館鶴屋の二階で、獄中の石川三四郎に宛てて葉書を書く。その二つの葉書に、森近一家と見送り人とともに共同署名。それとは別に、この日石川に葉書を書く(消印は5月7日)

5月6日

井上靖、誕生。

5月7日

漱石『文學論』 

〔5月7日、大倉書店刊。アンカット。672ページ。定価2円20銭。序として、「明治三十九年十一月夏目金之助」「明治四十年三月中川芳太郎」の二つの文章ならぶ。最後に、「(文學論として論すべき事項は以上五編にて悉くせるにあらず。漸くに論じ得たる以上五編も亦其布置、繁簡、段落、推論、の諸點に於て余が意に満たざるもの頗る多し。且忙中に閑を愉んで随書髄刷纔かに業を卒るを得たるを以て、思索推敲の暇なきよりして、罪を大方に得る事多からん。読者之を諒せよ。)」と付記している。36年9月から38年6月、東京帝国大学文科大学英文学科での講義をもとにしたものである。〕

5月8日

幸徳、「ソーシアル・ゼネラル・ストライキ」翻訳終了。

5月8日

救世軍ブース大将、京都で講演、平安養育院訪問。7月下旬救世軍京都小隊結成。

5月10日

内村鑑三、「「聖書之研究」において社会主義との絶縁声明

5月10日

モーリス・メーテルリンクの劇曲に基づいたポール・デュカスのオペラ『アリアーヌと青』、パリで初演。

5月12日

谷中村、大雨洪水の為大被害。福田英子は「世界婦人」で救済金募集を訴える。

5月12日

仏南部地方、ぶどうの枯死から大規模デモ。

5月13日

茨城県に江戸崎町他三ヶ村組合立農学校(現・茨城県立江戸崎総合高等学校)開校

5月13日

第5回ロシア社会民主労働党会議(ロンドン大会)、開催。~6月1日。合同大会。

トロツキー、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ統一に賛意。ボルシェヴィキの「強制収容」政策には反対。

トロツキー、マキシム・ゴーリキー、女優アンドレーエヴァと会い、ローザ・ルクセンブルクとも再会。

「トロツキーは、現在の革命においてプロレタリアートと農民が共通の利害を有しているという観点に立っている」「この点で、ブルジョア諸政党に対する関係という問題に関し、基本的観点の同一性が見られる」(レーニン)。


「1907年の党大会は、ロンドンにある社会主義派の教会で開かれた。参加者の数は多く、日程は長期間におよび、喧騒と混沌に満ちた大会であった。ペテルブルクではまだ第2国会が存続していた。革命は下火になりつつあったが、ロシア革命への関心は、イギリスの政界ですら、まだ非常に大きかった。著名な自由主義者たちは、客人にいいところを見せようと、名の知れた大会代議員を自宅に招いた。しかしながら、革命の退潮が始まっていたことは、党の財政悪化のうちにすでに見てとれた。帰りの旅費はおろか、大会の日程を終わらせるまでの経費さえこと欠く始末であった。この悲しい知らせが教会の円天井の下で告げられると、武装蜂起をめぐる議論に没頭していた代議員たちは、不安に満ちた当惑の表情でお互いの顔を見合わせた。いったいどうしたものか? このロンドンの教会に居座るわけにもいかないし…。

しかし、解決策は見つかった。それも、まったく思いがけない方面から。イギリスのある自由主義者が、ロシア革命に対し――私の記憶では――3000ポンド貸してくれたのだった。だが彼は、革命の約束手形に大会代議員全員が署名するよう求めた。そのイギリス人は、ロシアのすべての民族の文字で記された数百の署名のある証書を手に入れた。しかしながら、この約束手形の支払いを受けるまで、彼は長い年月を待たなければならなかった。反動と戦争の時期、党はこのような大金を支払うことなど思いも及ばなかった。ソヴィエト政府になって初めて、ロンドン大会の約束手形は支払われたのである。こうしてロシア革命は自らの約束を履行した。もっとも、例によって、遅ればせながらであるが。」(トロツキー『わが生涯』)


「大会が始まって間もないある日のこと、私は教会の控え室で1人の男に呼びとめられた。背が高く、ごつごつした、ほお骨の突き出た丸顔の男で、丸い帽子をかぶっていた。『私はあなたの崇拝者です』、彼は愛想のいい笑みを浮かべて言った。

『崇拝者?』、私は当惑げに聞き返した。実は、私が獄中で書いた政治パンフレットのことを言っていたのだった。私が話していた相手こそ、マクシム・ゴーリキーだった。本人に会ったのはこの時が初めてだった。

『申し上げるまでもないと思いますが、こちらこそあなたの崇拝者ですよ』、私はあいさつを返した。

当時ゴーリキーはボリシェヴィキに近い立場にあった。いっしょにいたのは、有名な女優のアンドレーエヴァだった。私たちは連れ立ってロンドン見物に出かけた。

『よろしいですか』、ゴーリキーは、あごでアンドレーエヴァを指しながら、驚嘆した面持ちで言った――『彼女はあらゆる言語を話すんです』。

ゴーリキー自身はロシア語しか話さなかったが、その話っぷりは見事だった。1人の物乞いが辻馬車のわれわれのドアを閉めたとき、ゴーリキーは哀願するような口調で言った。

『彼にこの小銭をやらなくちゃ』。

『もうやりましたわ、アリョシェンカ、やりました』、アンドレーエヴァは答えた。」(『わが生涯』)


ロンドン大会で私は、1904年からすでに知己を得ていたローザ・ルクセンブルクとより近しくなった。彼女は、小柄で華奢で、病弱でさえあったが、高貴な顔立ちと、知性に輝く美しい瞳を持ち、その勇敢な性格と思想は人を魅了してやまなかった。彼女の正確で容赦のない張りつめた文体は、いつまでもその英雄的精神を映し出す鏡であり続けるだろう。彼女の性質は多面的で豊かなニュアンスをたたえていた。革命とその熱情、人間とその芸術、自然とその小鳥や草木――これらすべてが、多くの弦を持った彼女の心の琴線に触れることができた。彼女はルイーゼ・カウツキーに宛てて次のような手紙を書いている。

『私が世界史の渦中にいるのは何かの誤解であって、本当はガチョウでも飼うために生まれてきたのだ、と私が言ったとしたら、その言葉を信じてくれるような人が私には必要なのです』(『ローザ・ルクセンブルクへの手紙』、173頁)。

私とローザとの個人的関係はそれほど親密というわけではなかった。そうなるには、あまりにもまれにしか会う機会がなかったからである。私は遠くから彼女を感嘆のまなざしで見ていた。しかし、それでも当時は、彼女のことを十分高くは評価していなかったかもしれない…。いわゆる永続革命の問題について、ルクセンブルクは私と同じ原則的立場を擁護していた。大会の控え室で、この問題をめぐって私とレーニンとの間で冗談半分の論争が起こった。代議員たちは私たちの周りをびっしり取り巻いた。

『それというのもすべて』、レーニンはローザのことを評して言った――『彼女がうまくロシア語を話せないからだよ」。

『その代わり、彼女はマルクス主義語をうまく話しますよ』、私は答えた。代議員たちは笑い、私たちもいっしょに笑った。」(『わが生涯』)


トロツキー、ベルリンに行き、妻とシベリアから脱走してきたパルヴスと落ち合う。

後、トロツキーはシュトゥットガルト(第2インター大会)、妻はロシア、パルヴスはドイツに向う。


つづく

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