ゴヤ『フェルナンド七世騎馬像』1808
・・・ゴヤがパラフォックス将軍の招きに応じてサラゴーサへと下って行く直前まで、・・・フェルナンド七世の騎馬像を描いていた・・・。
アカデミイが・・・依嘱をしたのは、一八〇八年三月二八日・・・。
この辺の日付け・・・。
三月一八、一九日、フェルナンドのアランホエース謀叛事件。カルロス四世退位、フェルナンド七世即位宣言。ゴドイ、投獄。
三月二三日、ナポレオンの代理ミュラ将軍、マドリード入り。
三月二四日、フェルナンド七世、マドリード入り。
ゴヤはアカデミイのこの依嘱を喜んでうけている。・・・。
画家は、新王を描くについて、直接王を前に描くことを許可してくれなければ不可能だ、とアカデミイに通告をしている。・・・。
四月六日午後二時半に、王は彼の前でポーズをとってくれた。その翌日か、翌々日にもう一度。通算四五分間。
それっきりである。
四月一〇日、フェルナンドはナポレオンに呼び出されてバイヨンヌへ行ってしまった。
そうして五月二日、マドリード蜂起。つづいて全国的蜂起開始。
七月二五日、ホセ一世(ジョセフ・ボナパルト)、マドリード入り。
つづいて八月五日、ホセ一世、マドリード退避。
この政治的にも軍事的にも、スペインの大地を揺がさんばかりの激動期に、彼は半年がかりで、おそらくは断続的に、このフェルナンドの騎馬像の仕事をして来たことになる。それは、ある時期には危険な仕事でさえあったであろう。
一〇月に入ってこの仕事が完成し、「画面が乾燥してから、ドン・ホセ・フォルケに掛けに行くように伝えてあります」とアカデミイに通知し、このあとにサラゴーサへ行く旨を伝えてから、「王立アカデミイは、王の肖像画に欠陥があったとしても、陛下が二度の機会に、私にお与え下さった時間が通算僅かに四五分であったことを考慮し、看過されることと存じます」と付け加えている。
・・・この言い訳はゴヤとしては珍しいことに属する。
ということは、ゴヤもがこの新しい青年王に希望を託していたことを意味するものではなかろうか。・・・
・・・この『フェルナンド七世騎馬像』を眺めていると、とりわけてその如何にも若々しい顔貌に託されている清新なものが当方をうって来るのである。
・・・
・・・私はつくづくと眺めていて、政治というものにある種の夢と期待を寄せざるをえない人間とその社会についての、深甚な幻滅を味わわざるをえなかった・・・
ゴヤが託した夢も期待も希望も、しかし、六年後に、戦争の惨禍に荒れ果てたこの国へ復活して来る同じ王によって、もっとも無慙かつ残酷に裏切切られるであろう。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿