美の巨人たち2016-07-23
「私にとって絵とは愛らしい、そして楽しくて綺麗なもの。そう綺麗なもの!でなけりゃならないんだ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)
「都会のダンス」と「田舎のダンス」は縦180cm・横90cm、ほぼ等身大で描かれた油彩画。
「都会のダンス」の舞台はダンスホール。栗色の髪が美しい女性は背中が大きく開いたドレスを身に着け、腕を腰にまわした男性のリードに身を任せている。モデルは後に画家となったシュザンヌ・ヴァラドン。男性はルノワールの友人ポール・ロートがモデル。
一方、「田舎のダンス」の舞台は屋外。男性のモデルは同じくポール・ロート。女性のモデルはアトリエの近所に住んでいた娘アリーヌ・シャリゴ。
屋内と屋外、洗練と素朴、すまし顔と満面の笑み。
なぜルノワールは対照的な2枚のダンスを描いたのか?
19世紀末、フランス画壇に新たな潮流「印象派」が生まれた。彼らはアトリエを飛び出しうつろう光をキャンバスにとどめた。クロード・モネ、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガなど現代では錚々たる顔ぶれと言われる中にピエール・オーギュスト・ルノワールもいた。
■「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」;1876年の第3回印象派展に出品された傑作
ところが、印象派の最高傑作を描いたルノワールにこのときから深い迷いが生まれた。
そして、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」から7年後に描かれたのが「都会のダンス」と「田舎のダンス」。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」とは人物の描き方が一変している。
なぜ画風が変わったのか?
「私の仕事に断絶のようなものが生じました。『印象主義』の限界まできてしまい絵具を塗ることも素描することも出来なくなりました。袋小路に迷い込んでしまったのです」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)
■再生の旅路 アルジェリア~イタリア
1881年、苦悩にさいなまれるルノワールが向かったのはアフリカのアルジェリア。
パリとは違う突き刺さるような強烈な日差しは心に巣食った暗部を消し去った。
「バナナ畑」(1881)
「アルジェリアで私は白を発見したよ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)
続いてルノワールが向かったのはイタリアのフィレンツェ。
そこで出会ったのはラファエロの「小椅子の聖母」(1513-15年)。
このルネサンス芸術の傑作に彼は大きな衝撃を受けた。
「出かけるときはただ冷やかしに見るつもりだったんだ。ところが実際目にしたのは考え得る最も自由で堅固な、そして単純な生き生きとした絵だった。腕といい脚といいまさしく現し身のようだ」(ピエール・オーギュスト・ルノワール)
「人間を惹きつけるものといえばただひとつしかない。それは人間だ」(ルノワールがよく引用したパスカルの言葉)
アフリカとイタリアの旅に行き、新たな境地を得たルノワールは制作を再開し、「都会のダンス」「田舎のダンス」が生まれた。
人物はしっかりした輪郭で描かれ、まるで彫刻のような実在感を持っている。光も色も人間を際立たせるためにある、これがラファエロから学んだことだ。様々な色彩を駆使して描かれた光沢は、アルジェリアの強い光から発見した白だ。
ルノワールは印象派の一歩先へと進んだ。
ではなぜ彼は都会と田舎の2つのモチーフで描いたのか?
答えはもう1枚の絵にあった。
■人生の転機 もう一枚の「ダンス」とは?
画商の依頼を受けてルノワールが描いたのが「ブージヴァルのダンス」。
場所は郊外のダンスホール。麦わら帽子の男と赤い帽子の女が踊っている。足元に散らかったタバコの吸い殻が庶民の楽しみの場であることを物語る。流行の最先端である薄紅色のドレスはブラウスとスカートのアンサンブル。
ルノワールは、辛い仕事のあと、気晴らしに郊外のダンスホールで踊る当時の若い女性の姿を写しだした。これは、その開放的な雰囲気を見事に描写した傑作。
■なぜルノワールは「3枚のダンス」を描いたのか?
3枚の中で一番最初に描いたのが「ブージヴァルのダンス」。この絵に確かな手ごたえを感じたルノワールは、さらに「都会のダンス」「田舎のダンス」を描いた。
ルノワールはなぜ同じモチーフを3度繰り返し描いたのか?
その理由は背景を見ると分かる。
「ブージヴァルのダンス」では中心で踊る2人の奥の木陰に談笑する人々がいる。踊る2人は輪郭がはっきりした古典絵画の画法。背景の人々は輪郭がはっきりしない印象派の画法。
そして、次の描かれた「田舎のダンス」では印象派のタッチは少なくなり、「都会のダンス」では消えている。
ルノワールは印象主義をキャンバスから徐々に消していった。3枚を描きながら印象派への決別を宣言したのかもしれない。
■ルノワール「ダンス3部作」 モデルとなった女性の謎!
「ダンス3部作」の男性のモデルは3枚共通してポール・ロート。
女性は「都会のダンス」はシュザンヌ・ヴァラドン、「田舎のダンス」はアリーヌ・シャリゴ。
「ブージヴァルのダンス」のモデルは長らくシュザンヌ・ヴァラドンだと考えられてきたが、近年新たな説が浮上してきた。顔はシュザンヌで、体型はアリーヌ。つまり、ルノワールは新たな出発となったこの絵でシュザンヌとアリーヌという心惹かれた2人の姿を重ね理想の女性を生み出そうとしたのかもしれない。
シュザンヌ・ヴァラドンはサーカスの花形スターをつとめ、後に女流画家としても名をなした奔放な女性。その美貌は多くの画家を虜にした。「都会のダンス」はそんな彼女が最も美しく映えるダンスシーンとして描かれた。
アリーヌ・シャリゴはルノワールが住む近所の洋裁店でお針子として働いていた。大らかな性格は悩み多きルノワールの心を和ませたと言う。「田舎のダンス」はそんな18歳年下の純朴な娘が最も輝くダンスシーンとして描かれた。
■一人だけ微笑んでいるアリーヌ
「ダンス3部作」の中で唯一「田舎のダンス」の女性だけがこちらを見つめている。ルノワールにとってアリーヌ・シャリゴは心を安らかにしてくれる存在だった。ルノワールはドガに、アリーヌについて「あの人は好きなだけ僕に考えさせてくれるんだよ」と言っている。
「母性あるいは乳飲み子」(1885年)。
この年、ルノワールとアリーヌの間に長男ピエールが誕生。
そして1890年に2人は正式に結婚した。
「私が絵画を愛するのはいかにも永遠という感じがするときさ。でもわざと作った永遠じゃだめだよ。すぐ隣の街の片隅で毎日見られるような永遠さ。子供に乳をやっている女はどれもこれもラファエロが描くところの聖母だよ!」(ルノワール)
ルノワールは晩年、リウマチで手足の自由を失う。それでも絵筆を腕にくくりつけ絵を描き続けた。
「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。私はまだ進歩している」(ルノワール最後の言葉)
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