鎌倉、大巧寺 2016-08-25
*昭和19年1月7日、インパール作戦(ウ号作戦)が認可(大陸指1776号)される。
インド東北部インパール攻略。英印軍の反攻阻止・自由インド仮政府の拠点確保。
「南方軍総司令官ハ『ビルマ』防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ『イムパール』附近東北部印度ノ要域ヲ占領確県スルコトヲ得」。
ここで、昭和17年からインパール作戦認可までの経緯を概観しておく。
1942年4月
痩せて背が高く「インドの族長のような顔・・・全身からジャングルと汗と戦争の臭いがただよっている」と称され、ゲリラ戦に異才をもつオード・C・ウィンゲート少将は、ウェーベル英インド軍司令官にニューデリーへ呼ばれ、長距離挺進隊を率いビルマ侵入の命令を受ける。
侵入目的は、日本軍の防衛態勢を破壊すること、連合軍が将来、ビルマ奪回作戦を本格的に実施する時のための試験と偵察をすること。
昭和17年5月1日
第18師団(牟田口中将、第15軍司令宮飯田祥二郎中将の隷下)がビルマの古都マンダレーを攻略。ビルマにいたイギリス軍はインド領に、中国軍は自国領に退却。
まもなく、ビルマに雨季がくる。
この頃、第15軍司令部では、ビルマ・インド、ビルマ・中国の国境方面は、地勢が険しく、作戦は不可能と考えていた。牟田口師団長も、それには同意していた。
しかし、ビルマ平定の余勢をもって、一挙にインドに進入し、インドの支配権を握ろうと計画するものがあった。その一つが南方軍総司令部(総司令官寺内寿一元帥)である。
昭和17年8月6日
南方軍総司令部、「インド東北部に対する防衛地域拡張に関する意見」(第21号作戦)、大本営提出。作戦主任参謀林璋少佐、起案。
ビルマ・インド国境方面の連合軍兵力は弱く、防衛も手薄だから、この機に乗じて、東部インド一帯を占領するという。
昭和17年9月1日
まもなく、大本営が同意して許可したので、南方軍はビルマの第15軍に対して、21号作戦準備を命じる。
第15軍の飯田軍司令官、第15軍の兵力でやりこなせる作戦ではないと考えていた。
昭和17年9月3日
第15軍飯田軍司令官は、ビルマ東部、シャン州タウンジーの第18師団牟田口師団長をたずねて意見を求めた。
牟田口師団長は、国境の山地には道路がなく、大兵団を動かすのに困難であること、後方からの補給が続かなくなることなど、の理由により作戦実施は困難と答えた。
シンガポール攻略時、ブキテマ高地の激闘で勇名を挙げて、まだ間もない牟田口師団長は、インド進攻案には反対であった。
ついで、飯田軍司令官は第33師団長桜井省三中将をシャン州カローに訪ねた。
桜井師団長はさらに強く反対した。
飯田軍司令官は、両師団長の意見に賛成して、南方総軍に再考を促すことになった。
大本営も、準備を命じたものの、確信があってのことではなかった。
総理大臣・陸軍大臣を兼任していた東条英機大将も、自信を持ってはいなかった。
そのうち、太平洋南東方面のガダルカナル島の戦況が悪化し、大本営はその方面の処置に追われた。また、ビルマ方面では、イギリス軍がベンガル湾沿いのアキャブ方面から、ビルマに反攻する兆候があらわれたので、21号作戦準備は中止になった。しかし、作戦そのものの研究は認められていた。
第15軍も、国境外に敗走したイギリス軍や中国軍が、すぐに反撃してくるとは考えていなかった。
ビルマ平定の後は気をゆるして、部隊の訓練と体力の増強をはかることにした。このために第18師団や第33師団などの主力部隊を、シャン州の高原地帯の避暑静養の地に集めていた。
昭和18年2月8日
ウィンゲート旅団はインパールからビルマ国境に向かう。
英・グルカ兵約3千、ロバと去勢した牡牛1千頭の背に武器弾薬を積み、数頭の象を先頭に進む。
シッタン川を渡り、湿地帯・ジャングルを突破し、ジビュー山系を越え、小部隊に分れて鉄道破壊作戦を開始。補給は空中投下に頼る。
昭和18年2月16日
有力な英軍部隊がチンドウィン河を渡って、北ビルマ方面に向かったという、ビルマ人の情報が入る。
昭和18年2月19日
夜、第33師団の1個大隊が行軍中に、突然、イギリス軍の大部隊と遭遇し交戦。
大隊長は戦死し、多くの損害を出した。
やがて、北ビルマの要地ミッチナ付近の鉄道や道路が、数ヶ所破壊された。
侵入部隊は無線連絡によって、飛行機から補給をうけながら前進していることがわかった。
牟田口中将の第18師団のー部が侵入部隊を攻撃に向ったが、補えることはできなかった。
そのうち、侵入部隊はイラワジ河を渡ってビルマ中央部に現れた。この河を突破されることは、ビルマ防衛に危険をもたらすと見られていた。侵入部隊の行動は、第15軍にとって、予断を許さないものとなった。
昭和18年4月頃
ウィンゲート旅団は自発的に撤退。
地形偵察、情報網設置、空挺部隊の降下適地確認、空中補給による長期戦闘の可能性、ジャングル内の大兵力戦闘法の研究等々、来るべき大反攻に必要な多くの事前調査を完了し、英軍にとって、ウィンゲート旅団の成果は大きい。
またウィンゲート少将の壮挙は、米軍も刺激し、やがて「マローダーズ」(掠奪者部隊)と呼ぶ特別遊撃隊をビルマに派遣する計画が立てられる。
日本側にとっても、ウィンゲート旅団の侵入は教訓的で、安全と思われた北ビルマの危険が感知され、同時にジャングル地帯も乾季は大部隊の作戦が可能であることがわかる。
この認識が後にインパール作戦を生む根拠になるが、ウィンゲート旅団の狙いについては、深く検討されなかった。
第18師団司令官牟田口中将は、最も大きな衝撃をうけ、このような挺進作戦をくり返されるとビルマ防衛は危険になると考える。また、英国兵の捕虜の自白で、国境方面での自動車道路建設が明らかになり、連合軍はビルマ奪回作戦のために、進撃道を作っていると考えられ、国境での大部隊移動は困難でなくなるとの認識は牟田口に大きな変化を与える。
牟田口中将側近で、インパール作戦計画を最も強く推進させた情報主任参謀藤原岩市少佐は、「牟田口中将の地形認識の一変と、その感受性の強い性格とあいまって、攻勢主義に一転した」と見る。
参考資料
NHK戦争証言アーカイブス
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父の兄(叔父)も義父の兄も、この戦争で戦死(餓死或いは病死と推測)している
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