治承4(1180)年
12月13日
・この日、近江追討軍は、馬淵城(現滋賀県近江八幡市)を落とし、200余をさらし首、40余を捕虜にした。さらに敵の主将の一人山本義経の本拠山本城に迫るが、攻略に手こずる。
近江源氏は戦いに負けて北へ北へと押し上げられているものの、美濃国から援軍が到着するので勢いは盛ん。近江国の戦いは、見通しのたたない泥沼の消耗戦に陥っていた。
12月13日
・朝廷は平時忠の進言を入れて、公卿に対して武者の提供を命じる(『玉葉』)。追討使は、連戦によって死傷者が増加し、新たな軍兵の補充が必要になっていた。
12月13日
・前右中弁平親宗が朝廷の事情を頼朝に内通しているのが発覚(「玉葉」同日条)。清盛室時子の同母弟、建春門院平滋子と異母兄弟、後白河院の近臣、前年11月清盛クーデタにより解官。
12月14日
・「武蔵の国の住人、多く本知行地主職を以て、本の如く執行すべきの由下知を蒙る。北條殿並びに土肥の次郎實平奉行たり。邦通これを書き下すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「十四日、壬辰。武蔵国住人の多くに、元から知行していた地主職は今まで通り執り行うようにと、命令が加えられた。北条殿(時政)と土肥次郎実平が奉行となり、(藤原)邦通が文書を記したという。」。
12月15日
・皇嘉門院および兼実の所領について、すべて召し上げ、武士に与えるとの命令。清盛は荘園領主の支配に介入して、反乱鎮圧のための総動員体制を創出しようとした。
12月15日
・興福寺衆徒、上洛の噂。
兵士供出の命により、藤原定家(19)、甲冑をつけた騎馬武者1騎を送る。
「十二月十五日。天晴。南京ノ衆徒、明日発向ノ由風聞。院並ニ禁裏、武士ヲ儲ケラル。侍臣各々勇幹者ナル一騎ヲ進ムベキノ由、催シ有り。事頗ル希有カ。但白丁(史大夫盛資ノ従者)ヲ求メ、介冑ヲ着ケシメ、駑駘ニ騎シ、参ゼシム。天明ニ帰り来ル(結番)。」(「明月記」)。(院も天皇も、武士をそなえ、侍臣からも、騎馬武士一人を進めよとの命で、定家も、慌しく家人の中から撰んで、甲冑をつけた騎馬武者を送る)。
12月16日
・前関白松殿基房、許されて帰京。この日、清盛が天下の事を三男宗盛に譲るという伝聞が流れる。
12月16日
・「鶴岡若宮に鳥居を立てらる。また長日最勝王経の講読を始行せらる。武衛詣でしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月18日
・清盛、後白河法皇(54)の幽閉を解き、院政再開を奏請。清盛、院に讃岐・美濃を「法皇の御分国」として贈る。前関白松殿基房、召還・還任。平知康・大江公朝(近日法皇第一の近習)を除く。清盛、政治を平宗盛に一任し、軍事面に専念。
しかし、法皇はその幽閉をとかれたものの、形式的ではあれ高倉上皇の院政が継続している状況のもとで、直ちに自らの院政権を樹立することも出来ず、しばらくはこれを受けなかった。
12月19日
・知盛家人橘公長の帰服。
「右馬の允橘の公長鎌倉に参着す。子息橘太公忠、橘次公成を相具す。これ左兵衛の督知盛卿の家人なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「十九日、丁酉。右馬允橘公長が鎌倉に到着した。子息の橘太公忠・橘次公成をともなっていた。公長は、左兵衛督(平)知盛卿の家人である。去る二日に、蔵人頭(平)重衡朝臣が東国を攻めるために出陣した際、前石大将(平)宗盛の指示で副えられた。弓馬が巧みなうえ、戦場に臨んだ時に智謀をめぐらす事が、人よりもすぐれているからである。しかし公長はよくよく平家の有様を考えると、すでに良い運が傾きかけている。また先年粟田口の辺りで長井斎藤別当(実盛)や片切小八郎大夫(景重)〔当時それぞれ六条廷尉(為義)の御家人であった〕と(公長が)喧嘩となった時に、為義はきっと朝廷に訴えるであろうと恐れていたところ、ただ怒りをおさえられただけでなく、むしろ斎藤・片切の二人を戒められた。(公長は)そのときの恩を忘れず、その志がずっと源家にあったのである。そのため大将軍の夕郎(重衡)を嫌い、縁者を尋ねてまず遠江国に下向し、次いで鎌倉に到着した。同じ所に同僚として仕えていた縁から加々美次郎長清を通じて(頼朝に)事情を申したところ、御家人になることを許されたという。」。
○公長:
父は公重。「延慶本平家物語」には「平家重代相伝の家人」とある。公長らの帰服に際しては、知盛家人として同僚であった加賀美長清の強い誘いがある。
○公忠:
公長の長男か。
○公成:
公業。公長の次男。頼朝の側近として活躍。奥州合戦の功によって出羽国秋田郡小鹿島の地を与えられ、小鹿島氏を名乗る。長門・讃岐の守護。薩摩守・下野守。
12月19日
・地震。21日にも地震。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿