2022年9月4日日曜日

〈藤原定家の時代108〉治承4(1180)年12月4日~12日 頼朝、上総権介廣常宅より大倉御所に移る 重衝、園城寺(三井寺)を攻め落とす

 


〈藤原定家の時代107〉治承4(1180)年12月1日~3日 「伝聞、今暁近州の逆賊楯を引き逐電す。美濃に到り辺を焼く。仍って官軍勢多・野地等の在家数千宇、放火し追い攻むと。終日の間余烟猶尽きずと。美濃の源氏等五千余騎、柏原(近江の国)の辺に出向くと。官兵近江道・伊賀道相並び、京下の勢三千余騎と。」(「玉葉」) より続く

治承4(1180)年

12月4日

・藤原秀衡が清盛の命により、頼朝追討の請文を提出したとの風説あり。清盛が流言を流す(他に、上野・常陸武士、平家に内応。城氏、甲信越の源氏軍を抑える。近江源氏3千、平家軍2千に完敗)。

「また聞く、奥州の戎狄秀平、禅門の命に依って、頼朝を伐ち奉るべきの由、請文を進しをはんぬと。但し実否未だ聞かず。」(「玉葉」同日条)。

「伝聞、近江の国の武士等三千余騎、官兵(僅かに二千騎ばかり)の為に追い散らされをはんぬと。」(「玉葉」6日条)。

12月4日

・阿闍梨定兼を鶴岡供僧職に補任。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「四日、壬午。阿闍梨定兼が召しにより、上総国から鎌倉に参上した。定兼は、去る安元元年四月二十六日に上総国に流されてきた流人であり、仏法の知識が深いとの評判があり、今の鎌倉中にはしかるべき徳の高い僧がいないので、(頼朝は上総)広常に命じて(定兼を)召し出されたのである。今日すぐに定兼を鶴岡供僧職に補任されたという」。

12月6日

・中原親能捜索事件。平時実、中納言源雅頼三条猪熊邸に乱入。中原親能はこの家人で、幼少時相模住人に育てられ頼朝と知合い。明経博士中原広季邸も捜索。

12月9日

「伝聞、延暦寺衆徒の中、凶悪の堂衆三四百人ばかり、山下兵衛の尉義経(近江の国逆賊の張本、甲斐入道件の義経に與すと)の語を得て、園城寺を以て城と為し、六波羅に夜打ちに入るべし。また近江の国に進向する所の官軍等、その後を塞ぎ、東西より攻め落とすべきの由、結構を成すと。茲に因って経雅朝臣・清房(禅門息、淡路の守と)等、追って遣わさるべしと。また興福寺の衆徒、逐日蜂起し、宮大衆と称すと。」(「玉葉」同日条)。

12月10日

・近江源氏・美濃源氏が近江で活発に動き始めたことに呼応し、延暦寺と園城寺の大衆が協力して園城寺に籠もる。平氏が状況確認のために平盛俊の郎党を派遣したが、山科(京都市山科区)で大衆に迎撃される。平氏は平経正・平清房を援軍に派遣して退ける(『玉葉』・『山槐記』)。

同じ頃、以仁王事件に与力した罪人の引き渡しをめぐって平氏政権と延々と揉めていた興福寺大衆が、嗷訴を企て始めたという情報が京都に寄せられる。

追討使は、近江源氏の拠点となる集落で民屋を焼いていく焦土作戦を展開、その様子を「近江国方、煙を見ゆ、もしくはこれ、官兵凶党を攻むるの間、放火か」と、大納言中山忠親『山槐記』は記している。焦土作戦は近江源氏にとって手痛い打撃である。また、近江国が荒廃していくことは、近江国を東坂本(比良山地の琵琶湖側の麓が東坂本、京都側の麓が西坂本)とよんで重要拠点と考える延暦寺・園城寺にとっては我慢のできないことであった。延暦寺と園城寺の大衆は、近江源氏追討の軍勢を派遣した留守を突く形で入京を狙いはじめる。近江国の情勢は、攻め込んだ追討使が突出した危険な状態に陥っていた。

12月10日

「只今南都より脚力到来す。衆徒すでに洛に入らんと欲し、終夜走り来たる所なり。大衆の勢以ての外と。てえれば、今日山の悪僧等を追討せんが為、官兵行き向かうの間、山科東の辺に於いて衆徒と降り合い、すでに以て合戦す。未だ事切れずと。申の刻に及び、大衆等引退し、籠城しをはんぬと。夜に入り、南都より告げ送りて云く、大衆蜂起すと雖も、僧綱以下制止を加えるに依って、和平しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。

12月11日

・清盛、京都に留め置いた重衝に対し、園城寺に籠る大衆を攻め落とすことを命じる。重衝は昼夜を分かたず攻め続け、翌日、園城寺を攻め落とす。

「平相国禅閤重衡朝臣を園城寺に遣わし、寺院の衆徒と合戦を遂ぐ。これ当寺の僧侶、去る五月の比、三條宮に候する故なり。南都同じく滅亡せらるべしと。凡そこの事、日来沙汰無きの処、前の武衛彼の令旨に依って、関東に於いて合戦を遂げらるるの間、衆徒定めて與し奉るかの由、禅閤思慮を廻し、この儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十一日、己丑。平相国禅閤(清盛)は(平)重衡朝臣を園城寺に派遣し、寺の衆徒と合戦させた。これは当寺の僧侶が、去る五月のころに三条宮(以仁王)に伺候したためである。南都も同様に滅ぼされるであろうという。この事については日頃は全く問題とされなかったものの、前武衛(頼朝)が以仁王の令旨によって関東で合戦を遂げられたため、衆徒もきっと味方するだろうと清盛が考え、園城寺を攻めたという。」。

「伝聞、昨日山僧と官兵と合戦す。両方の勢各々二三十人ばかり、堂衆方四人梟首せられをはんぬ。官兵十人ばかり手を負うと。堂衆等山中に引き籠もりをはんぬ。或る説、三井寺に籠もるべしと。また聞く、南都の衆徒、僧綱等の制止に依って、一旦和平すと雖も、始終知らずと。」(「玉葉」同日条)。

12月12日

・南都の大衆、この日、末寺や荘園の武士を動員して上洛することを決定し、16日に上洛する旨を朝廷に通告。「朝廷、法相宗(ほつそうしゆう)を滅ぼさんと欲するの旨あり。子細を問はんがため上洛を遂ぐべし」というのがその骨子である。しかし平氏が15日に近江の平定作戦をほぼ終了したこともあって、大衆は動きを止める。

12月12日

・頼朝、上総権介廣常が宅より新宅(八幡宮東側の大倉郷に竣工、大倉御所)移転への儀式。頼朝と御家人の支配関係確認儀式(京に対して鎌倉政権樹立宣言)。

「和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候。・・・今日、園城寺平家の為に焼失す。金堂以下堂舎・塔廟並びに大小乗経巻、顕密の聖教、大略以て灰燼と化すと。」(「吾妻鏡」同日条)。足利義兼・山名義範の「吾妻鏡」初見記事。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十二日、庚寅。・・・亥の刻に前武衛(頼朝)が新造の御邸へ移られる儀式があった。(大庭)景義を担当として去る十月に工事始めがあり、大倉郷に作られたのである。定刻に(頼朝は)上総権介広常の宅を出発されて、新邸にお入りになった。(頼朝は)水干を着て、馬〔石和の栗毛〕にお乗りになった。和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎良活が(頼朝の)馬の左につき、毛呂冠者季光が同じく右についた。北条殿(時政)、同(北条)四郎主(義時)、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同(千葉)太郎胤正、同(東)六郎大夫胤頼、(安達)藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義美、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同(佐々木)三郎盛綱以下が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。寝殿にお入りになってから、御供の者たちは侍所〔十八間〕に参上し、二列に向かい合って座った。義盛はその中央にいて、そろった者たちを記録したという。出仕した者は三百十一人という。また御家人たちも同じく居館を構えた。これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。鎌倉は元々辺鄙なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。そのため今この時にあたって、巷の道をまっすぐにし、村里に名前をつけた。それだけでなく家屋が立ち並び、門扉が軒をめぐらすようになったという。今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂舎や塔廟、それに大小乗の経巻や、顕密の聖教がほとんど灰となってしまったという。」。

・和田義盛、侍所別当の初仕事。310人が2列で列座し、中央に和田義盛。先陣和田義盛。左に加々美長清、右に毛呂秀光、後に北条時政・義時・足利・山名義範・千葉・安達・土肥・岡崎・工藤・宇佐美・土屋・佐々木。後陣は畠山重忠。勢力順:御後(北条時政)、先陣(和田義盛)、次随兵(北条義時)、後陣(畠山重忠)。

「伝聞、昨日官兵等三井寺に寄せ(山の堂衆一昨日より引き籠もるなり)、夜漏に及び合戦す。堂衆勢少く、引退し江州方に向かいをはんぬ。官兵等三井寺の近辺並びに寺中の房舎少々を焼き払う。堂舎に及ばずと。官兵方七十余人疵を蒙ると。」(「玉葉」同日条)。


つづく


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