2022年10月11日火曜日

〈藤原定家の時代145〉寿永2(1183)年7月25日 平家の都落ち① 天皇・建礼門院を奉じ神器と共に京都を出奔 それぞれの都落ち①(重衡、維盛、忠清、経盛、経正)      

 

2010-08 祇園白川

〈藤原定家の時代144〉寿永2(1183)年7月24日(都落ち前日) 宗盛、出陣中の諸将を都に呼び戻す(小松家、頼盛には届かず) 安徳天皇は法性寺に移る 法性寺の後白河は基通の密告により密かに比叡山に入る 「君臣合体の儀、これをもつて至極たるべきか」(「玉葉」) より続く


寿永2(1183)年

7月25日

・平家の都落ち

朝、宗盛は院が逐電したのを知る。急ぎ六波羅泉殿に移動のうえ、午前10時ごろ、天皇・建礼門院を奉じ、摂政基通および平家の一族を率いて京都を出奔、淀方面に向かう。

一方権大納言平時忠は神鏡、天皇が用いる椅子、玄上(げんじょう)・鈴鹿などの伝説的な楽器器、時の簡(ふだ)(内裏において時刻を表示した板)などを持ち出し、身をもって保護にあたった。いずれも譲位の時新帝のもとに移される宝器である。剣璽はむろん天皇とともに都を出たが、これらをまとめて持ち去った時忠の行動は、その後の展開を考えると大変重要で、さすがにぬかりがない。この時六波羅・西八条の平家邸宅群には火がかけられ、すべて灰燼に帰した。

その後、玄上だけが路頭に放置されているのを発見される(「百錬抄」8月5日条)

平知盛、源氏と関係深い東国の人々(畠山重能・小山田有重・宇都宮朝綱ら)の帰郷を許可。

後白河院は、安徳天皇と三種の神器が京都を離れたことは、京都の政権の正統性を失わせることだと理解していたので、平氏を滅ぼすことよりも、三種の神器を京都に戻すことを優先させた。領地に戻って平氏を討つ軍勢を調えている摂津源氏多田行綱に対し、賊臣(平氏のこと)が三種の神器を盗んで逃走しているが、むやみに討ってはならない。まず、三種の神器の安全を確保するようにという命令を側近の平親宗(平時忠の弟)を通じて伝えた(『玉葉』)。

後白河院が京都の南にいる義仲与党の動きを封じたので、平氏は途中にいる源氏の抵抗を排除しつつ、福原旧都にたどりつくことができた。

後白河院には、京都で即位させる後鳥羽天皇と西海に逃れた安徳天皇の二帝並立を解消し、後鳥羽天皇が正統な天皇として日本を治めていくことを世にしらしめる必要があった。後白河院と頼朝はこの政治目標を達成するために連携して戦争を行い、安徳天皇が上皇として帰京し、後鳥羽天皇に対して譲位の儀を行うことが最良の結末とされた。ここには、平氏は降参に追い込めばよいので、滅ぼす必要はないという選択肢がでてくる。その最初の動きが、多田行綱に対する三種の神器の確保を最優先せよという指示であった。

■重衡

重衡は『平家公達草紙』では、たえず出入りしていた式子内親王の御所に、「うとましい」甲冑姿で別れの挨拶に向かい、女房たちを驚かせた。特別の仲の女房が二人いたが、それぞれ重衡の姿をちらりと見ただけで、彼が辞去するまでついに姿を現さなかった。一人はのちに彼が斬られると髪を下ろし、いま一人は重衝が生け捕りになったころ姿をくらまし、聖徳太子の墓のあたりに隠遁して都に帰らなかったとある。それを知った人びとは、これこそひときわ深い心よ、あの別離の時に二度と達うまいと思ったのも優れて情趣がある、いみじくあわれなことよ、と話したとある。しかしこれは、「忍ぶる恋」で知られる式子内親王のイメージから思いついた、想像の情景だろう。

■維盛

延慶本『平家物語』では、宗盛から小松家に対し都落ちに関する情勢を伝える使者は派遣されていない。小松家はその情報を、小松家に来訪した人から聞かされた。

源氏の軍勢がすでに都に討ち入っていること、後白河院が比叡山に御幸したこと、六波羅殿の館は大混乱の状態で安徳天皇西国行幸の準備をしていること、宗盛以下の人々はすでに出立していること等で、最後に、どうして今になっても小松家は出立しないのかと尋ねられている。維盛の出立は遅れた。結果的には、自分が最後尾と思っていた頼盛のまだ後方にいた。

維盛は、妻子を京都に残して京都を離れることにした。妻(藤原成親の娘)には都にとどまって娘たちを守るように伝える。一門の風当たりを避けるためであったが、都落ちの前途に展望をもてなかったからでもあろう。覚一本では、この時維盛は自分が死んだら出家などせず再婚せよと勧めるが(巻7「維盛都落」)、それはのち彼女が吉田経房の後妻になったという事実から遡及したと考えられている。

維盛は、斎藤実盛の子宗貞・宗光を呼んで、京都に留まって残していく妻子を守るように命じる。この二人は平氏滅亡後も六代御前(維盛の子)の側を離れなかった。神護寺の文覚上人はこの三人を哀れんで助命に奔走し、神護寺が遁世僧として預かることで話をつけた。

■忠清

維盛の乳父伊藤(上総介)忠清は都落ちに同道せず29日に出家、同じとき平貞能の子検非違使貞頼も出家した。忠清は後白河近習の藤原能盛(よしもり)、貞頼は仁和寺相承院の兼毫法師のもとにある。仁和寺は王家と関係深く、当時の門主は後白河第二皇子の守覚法親王。

なお、忠清は翌元暦元年(1184)7月、平信兼、平田家継(貞能の兄)らと伊賀・伊勢で蜂起(三日平氏の乱)。反乱は鎮圧され、忠清は潜伏中の鈴鹿山で捕らえられ、文治元年5月、姉小路河原で梟首される。

■経盛

平経盛は、諸国の受領を歴任し、正四位下で内蔵頭を勤めた功によって従三位に昇進する非参議公卿で、財務に通じた事務官として宮仕えをした。

経盛は、『千載和歌集』以後の勅撰集に入集した勅撰歌人で、私家集として『経盛集』を残している。横笛の名手で、延慶本『平家物語』は後白河院が催した堀川院追善供養報恩講の舞曲の横笛の主笛を勤めたと伝える。都落ちの時には、弟子の左京大夫藤原能方(よしかた)が未だ伝授が終わっていないと教えを乞うためにどこまでも同行するつもりでついてきたと『平家物語』は記す。経盛は、西海に果てるかもしれない身なので御身を大切にするようにと、福原で一夜語り明かした後、能方を都に帰らせている。

■経正

平経正(経盛の子)は、旧主の仁和寺五世御室覚性法親王(おむろかくしようほつしんのう、鳥羽天皇第五皇子)のもとに赴き、預け下されていた琵琶の名器「青山(せいざん)」を返上した。覚性法親王は話を聞いて涙で袖をぬらすばかりで、返事もできなかったという。この話は、『平家物語』の名場面として記憶され、室町時代には謡曲「経正」として演じられることになる。また、高野本『平家物語』には、寿永2年の北陸道合戦の時に竹生島(琵琶湖の中にある島、弁才天の霊所)を訪れたことが描かれている。都久夫須麻(つくぶすま)神社は『延書式』にも記された式内社で、神仏習合で弁才天と同体であると考えられるようになり、竹生烏弁才天とよばれることが多かった。弁才天は別名を妙音天(みようおんてん)といい、音楽の仏でもあった。弁才天の図像には、琵琶を抱えている姿もある。北陸道に出陣する経正がここに立ち寄ったのも、琵琶の上達を願ってのことであろう。

経正は、治承3年のクーデタで但馬守に任じた。歌をよくし琵琶の名手。幼時に覚性に稚児として仕えた。覚性には稚児男色をめぐる説話が伝わっているから、経正との間にも男色関係があったことを想定できる。謡曲「経正」は、御室御所(仁和寺の門主)と経正の間にその関係があったのを前提に、劇の構成がなされている。

のちに、一ノ谷合戦で熊谷直美に討たれた平敦盛(経盛の子)も月影と名付けられた篳篥(ひちりき、横笛の一種)を鎧の引合に差し入れていたという(延慶本『平家物語』)。この篳篥も、平敦盛の悲話と共に語られ、室町時代の謡曲「敦盛」から「青葉の笛」の物語として楽器を変えて語られるようになった。


つづく

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