寿永2(1183)年
8月18日
・新天皇を決める御占を行う(「玉葉」)。
神祇官も陰陽寮も、後白河院の意向を推し量らず、占いの結果をそのまま奏上した。伝えられた神意見は、三宮を第一とする内容であった。三宮は、後に承久の乱(1221)で崩れかかった朝廷を立て直した後高倉院で、強い外戚がいない点では四宮と条件が同じであった。
結果が思い通りでなかった後白河院は、女房丹後が「弟宮(四宮)が、行幸で松枝を持っていた」夢を見たと夢占いを持ち出した。これを受けて、後白河院は神祇官と陰陽寮に再度の御占を行わせ、四宮を最上とする結果に出し直させた。義仲は憤りを隠さず、北陸宮が叶わないなら三宮を立てるべきだと主張したが、後白河院は神意を楯にして譲らなかった。
「静賢法印人を以て伝えて云く、立王の事、義仲猶欝し申すと。この事先ず始めに高倉院両宮を以て卜わるるの処、官寮共兄宮を以て吉と為すの由これを占い申す。その後、女房丹波(御愛物遊君、今ハ六條殿と号す)夢想に云く、弟宮(四位信隆卿外孫なり)行幸有り、松枝を持ち行くの由これを見る。法皇に奏す。仍って卜筮に乖き四宮を立て奉るべきの様思し食すと。・・・仍って折中の御占いを行わるるの処、今度は、第一四宮(夢想の事に依ってなり)、第二三宮、第三北陸宮、官寮共第一最吉の由を申す。第二半吉、第三始終不快。占形を以て義仲に遣わすの処、申して云く、先ず北陸宮を以て第一に立てらるべきの処、第三に立てらるる謂われ無し。凡そ今度の大功、彼の北陸宮の御力なり。爭か黙止せんや。猶郎従等に申し合い、左右申すべきの由を申すと。凡そ勿論の事か。左右に能わず。凡そ初度の卜筮と今度の卜筮と一二の條を立ち替えらる。甚だ私事有るか。卜筮は再三せず。而るにこの立王の沙汰の間、数度御卜有り。神定めて霊告無きか。小人の政、万事一決せず。悲しむべきの世なり。」(「玉葉」同日条)。
『健寿御前日記』によると、法皇が八条院(後白河法皇妹。健寿御前は姉の京極殿(後に坊門殿)と共にこの女院に仕えた)の常盤殿に臨幸された際、健寿御前は、女房たちが御前を退いたあとぽんやり者になりすまして座を立たずにいて、法皇と女院とのようなやりとりを聞いたとある。
女院から「御位はいかに」と問われると、法皇の返事は「高倉の院の四宮」とのこと。女院が、「木曽殿は腹立ち候ふまじきか」と問われると、法皇「木曽は何とかは知らん。あれは、すぢのたえにしかば(北陸の宮は皇統の絶えた者であるから問題にならない)。これは(四官は)、たえぬうへに、よき事の三つありて」、という。女院が「三つとは何事」と問うと、法皇は、「四つにならせ給ふ、朔旦の年(十一月一日が冬至に当る年)の位、この二つは鳥羽の院、四の宮はまろが例(後白河院は鳥羽の第四皇子)」、と答えたという。
法皇の胸中は最初から四宮と決まっていた。
8月20日
・故高倉天皇第4皇子尊成親王、践祚。後鳥羽天皇(3)。翌寿永3年7月28日、太政官庁で即位式。(平氏擁立の安徳天皇と後鳥羽天皇の2人の天皇が並立)。
平宗盛が第81代安徳天皇を奉じて西走、京都は天皇不在。後白河法皇は関白藤原基房、摂政藤原基通、左大臣藤原経宗らと議して新天皇を立てることに決する。木曾義仲は、以仁王の皇子北陸宮(法皇の孫)を推挙するが、法皇は高倉上皇皇子で安徳天皇弟の四宮(尊成親王)立てようとする。二宮(守貞親王、後高倉院)は平氏と共に西海にあり、三宮(惟昭王、四宮の兄、加賀宮)・四宮(尊成王)・北陸宮の3人中から選定することに決め、神前で卜占の結果、尊成王に決定。この日、法皇御所で親王宣下、皇太子に立て、即日践祚の儀を行なう。神器ない、法皇の詔による践祚。
義仲は、「大いに忿怨し申して云く、先ず次第の立て様、甚だ以て不当なり。御歳の次第によれば、加賀宮は第一に立つべきなり。然らずんば、又、初めの如く兄宮を先となされるべし。事の体矯餝に以て、故三条宮の至孝思しめさずの条、甚だ以て遺恨なり」(「玉葉」同日条)と憤る。法皇も皇位継承問題に干渉する義仲を、疎ましく思うようになり、策をめぐらし遠ざけていく。頼朝上洛により義仲を排除する計画(北面の武士平知康・大江公朝の提案)。
「剣璽を伝へざる践祚の例、今度これ初めなり。前主洛城を出るの後、今日に至るまで王位の空しきこと廿六ヶ日」(「百練抄」)。
三種の神器は、天皇不在という事態に直面して初めてその政治的意義が意識されるようになった。剣璽渡御なしの践祚、即位礼の強行は、のちに後鳥羽の精神に深い影響を与えるトラウマとなる。
・藤原定家、待望の内の殿上人となる。藤原隆房、新帝(安徳)蔵人頭に補任。
8月26日
・平家、大宰府に到着。山鹿城東方茶臼山に御在所(宇佐八幡)・在地武士の菊池隆直・原田種直・山鹿秀遠等が守護。1ヶ月。
『平家物語』によれば、原田種直(たねなお)の宿舎が天皇の御座所にあてられたという。大宰府の三等官の監(けん)、四等官の典(てん)を府官というが、種直はその府官筆頭の太宰大藍として、平家九州支配の支柱的存在である。彼は治承5(1181)年4月に宗盛の推挙で権少弐に昇進した。従来大宰府の次官以上は、中央派遣の貴族しかなれなかった。
「或る人云ふ、平氏の党類余勢まつたく減ぜず、四国ならびに淡路・安芸・周防・長門ならびに鎮西諸国、一同与力し了んぬ。(略)(旧主は)当時周防国に在り。但し国中に皇居に用ゐるべきの家無し。よりて乗船し浪上に泛(ただよ)ふと云々。貞能已下、鎮西の武士菊池・原田等みなもって同心す。鎮西すでに内裏を立て、出来るに随つて関中に入るべしと云々。明年八月に京上すべきの由結構すと云々。是等皆浮説に非ざるなり」(「玉葉」9月5日条)。平家は意気軒昂の様子。
「平氏去る八月二十六日鎮西に入り了んぬ。火を放ち以ての外と云々、肥後国住人菊池、豊後国住人臼杵御方等未だ帰服せずと云々。」(「玉葉」同年10月14日条)。
流布本「平家物語」(「宇佐行幸」)には、8月17日平家は安徳天皇を奉じて太宰府に到着、宇佐八幡宮に赴き大宮司公通邸を皇居とするとある。
・豊後の知行国主藤原頼輔は、国守の我が子頼経(よりつね)に、後白河の意志だから平家を追い出すようにと命じ、頼経はこれを国内の有力武士緒方惟義(惟栄・惟能)に伝えた。平家は惟義の主筋にあたる小松家の公達らを同国に派遣、説得させたがらちがあかない。かたや惟義も次男を大宰府に遣わして平家に退去を求めたが、応接にあたった時忠が、緒方らの忘恩をなじった。報告を聞いた惟義は「こはいかに、昔はむかし、今は今。其義(儀)ならば速かに追出したてまつれ」と兵を発したので、平家は大宰府から逃げ出さざるをえなくなった(覚一本巻8「大宰府落」)。
東に向かった平家は遠賀川河口の山鹿兵藤次秀遠(やまがのひょうどうじひでとお)の城に籠もり、さらにそこを追われて豊前柳ヶ浦(現大分県宇佐市)から海上に出た。さいわい長門国の目代が大船を献じてくれたので、阿波民部大夫成良の招きに応じて讃岐屋島に移ることになる。吉田経房がえた自領安芸国志芳(しほ)荘(現広島県東広島市志和町)からの飛脚情報によると、平家が九州から追い出されたのは10日21日だった。
平氏が九州を離れるまで味方として支援し続けた太宰府の大蔵一族や北九州の山鹿氏、長門の紀伊民部大夫通資は、その後も平氏の支持勢力として活動を続けた。彼らは、北九州を平氏の勢力圏として回復し、対馬守中原親光(ちかみつ、大江広元の従兄弟)を高麗に亡命させて、緒方氏を豊後国に押し戻した。山陽道の西端から北九州は、平氏の勢力圏として確保され続けた。
緒方惟栄:
豊後大神氏の一門、大神惟基(これもと)を祖とする一族。平安時代、「阿南」「稙田」「大野」「臼杵」「緒方」「佐賀」「戸次」「賀来」「大津留」「光吉」等の庶家に分かれ、軍団を組んで豊後を支配し、騎馬軍・水軍をも掌握した豊後最強の軍団。臼杵・大野・大分市周辺、国東では「山香郷」「大神郷」豊後高田の「都甲荘」等が支配地。
8月28日
・義仲、七条河原で木田重広・木田重兼ら武士70人を斬首(「玉葉」)。早くも同盟軍内部に亀裂が入っている。
つづく
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