2022年10月12日水曜日

〈藤原定家の時代146〉寿永2(1183)年7月25日 平家の都落ち それぞれの都落ち②(忠度、行盛、頼盛、宗清) 

 

2012-07 祇園祭

〈藤原定家の時代145〉寿永2(1183)年7月25日 平家の都落ち① 天皇・建礼門院を奉じ神器と共に京都を出奔 それぞれの都落ち①(重衡、維盛、忠清、経盛、経正) より続く


寿永2(1183)年

7月25日

それぞれの都落ち②

■忠度

薩摩守忠度(清盛の弟)、朱雀大路を出て鳥羽作道(とばのつくりみち)から武士5人童1人連れて引き返し五条京極の藤原俊成邸へと向かい、形見として一綴りの帖(「秀歌とおぼしき百余首書あつめられたる巻物」)を渡す。

語り本系の『平家物語』では、忠度が俊成亭を訪れ、門の外から大声で案内を請うと、落人が帰ってきたと恐怖する従者たちに、俊成は「その方なら差し支えあるまい。門を開けてお入れ申せ」といって対面したとある(巻7「忠教都落」)。ところが延慶本などでは忠度が訪れても、俊成は「ワナゝクワナゝク出合(いであ)」って、門も開かず対応した。忠度は勅撰集に我が和歌の入集を願い、「百首ノ巻物ヲ取出シテ、門ヨリ内へ投入テ」「涙ヲノゴイテ帰」ったとある。

この日の夕方には、貞能らが源氏と一戦を交える噂が流れていたから、都人は戦戦兢兢としていた。忠度には心残りな別れだったという読み本系の情景が、実際には近かったに違いない。

後日、俊成は「千載和歌集」(文治3年(1187)9月)を完成させ、忠度の歌を「読み人知らず」で掲載(「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな」)。俊成の子の藤原定家編纂の「新勅撰集」では作者を忠度として再録される。忠度は翌寿永3年2月7日一の谷の戦いで討死。 

「読み人しらず」として収められた平家の武将の歌は、忠度の他にも経盛一首、経正二首、行盛一首があった。

じつは「さざ波や」の歌は忠度が、源平内乱前に詠んだもので、彼の歌集『忠度集』の載っており、都落ち前年11月に成立した加茂重保(かものしげやす)の私撰集『月詣(つきもうで)和歌集』を編む時の材料に使われている。和歌研究者は、忠度のエピソードは史実ではないとする。

■行盛

左馬頭平行盛(清盛の早世した二男基盛の子)は、治承4年5月の以仁王事件から合戦に名を連ねている。和歌は、幼少の時から藤原定家の元に通って学んでいたという。平氏の都落ちが決まった後、行盛は今まで詠んだ和歌を集め、手紙を添えて、定家の元に送った。定家はその手紙の袖書きに書いた和歌を読んで涙を流し、後堀川院の時に自らが選ぶことになった勅撰集『新勅撰和歌集』に、平行盛の詠んだ歌として入集させた。この時、定家は朝敵となった人でも三代も前の人なので問題ないだろうと、平氏の人々の和歌を、官位と名前を明記して入集させた。これらの説話は、平氏に和歌の指導をした御子左家で語り継がれた話とみてよいだろう。俊成・定家が都落ちする平氏の人々に対して見せた哀惜の念をよく伝えている。

■頼盛

離脱する平頼盛(池ノ大納言頼盛、清盛の異母弟)

池殿を本宅とする平頼盛は、都落ちの前日(7月24日)、山科(京都市山科区)を守ることを命じられ、軍勢を率いて出陣した。そのため、平氏の中枢が安徳天皇を六波羅亭に迎えて、都落ちについて話し合う会議に出席できなかった。

平氏の中枢が都落ちの準備を始めた頃、頼盛は山科から京都の池殿に戻って後始末を始め、家族や家人を引き連れて都落ちの本隊を追いかけた。鳥羽で子の為盛を使者として本隊に派遣し、次の指示(鳥羽に留まって平氏本隊の後退を守るのか、家族を本隊に合流させて鳥羽で追尾する義仲の軍勢を足止めした後に退くのか、そのまま本隊に合流するのか)を仰いだ。淀に留まる平氏の本隊は、小松家と池家の到着を待っていたが、返答しなかった。返答が来ないので、頼盛は赤井河原(京都府伏見区、桂川と鴨川の合流点南側)まで進んで、休憩をとりながら回答の使者を待った。ここまで従ってきた家人は、100騎ばかりであったと延慶本『平家物語』は伝える。

頼盛は、一門の人々と行動を共にすべきか、都に戻るべきか考えこむ。この時、頼盛の軍勢が実質的な殿になっていた可能性が高い。

頼盛は、平忠盛と池禅尼(藤原宗子)を父母として生まれた。藤原宗子は、崇徳天皇の乳母をつとめたので、保元の乱(1156)では頼盛は崇徳上皇の陣営に加わるべき立場にあが、池禅尼はこの合戦は後白河天皇側が勝つと判断し、頼盛に対して兄弟の縁を理由に清盛陣営に加わることを指示した。その後、清盛は後白河院と結んで高倉天皇擁立を目指して動くが、頼盛は二条天皇(美福門院養子)の姉八条院の別当となり、鳥羽院嫡流の二条天皇親政を支持する立場をとった。

頼盛の妻の母は八条院の乳母宰相局(さいしようのつぶね)、生涯を未婚ですごした八条院は、側近の娘婿頼盛を信頼していた。延慶本『平家物語』が「故入道(清盛)にも、随ふ様にて、随はざりき、左右なき池殿を焼きつるこそくやしけれ」と頼盛に語らせているのは、一門の惣領として清盛を敬う態度を取るが、政治的には八条院に忠実な廷臣として振る舞い、必ずしも一門と行動を共にしなかったことを伝えている。宗盛を中心とした平氏の首脳部は、家族ではあるが運命共同体といえるほどの連帯感を示さない頼盛を、一門の帰趨を決める会議から外すために山科出陣を命じたという見方もできる。山科から京都に戻って池殿の整理をした後に南下する頼盛の軍勢は、都落ちの最後尾となった。宗盛は、頼盛が都を離れるまで援護する軍勢を残していなかったということである。

一門から実質的に見捨てられたと判断した頼盛は、都に帰る決心をし、「侍ども、皆赤じるし取り捨てよ」と平氏から離脱することを伝え、京へ引き返した(延慶本『平家物語』)。

頼盛は、法住寺殿に入って比叡山に登った後白河院に使者を派遣し、指示を仰いだ。後白河院は、思っていたとおりだと前置きした上で、八条院に匿ってもらうよう指示した(『愚管抄』)。

この指示を受けて、頼盛は八条院のいる仁和寺常磐殿に参上、姑の宰相局の案内で八条院と対面し、出家して隠遁しようと考えていると伝えた。しかし、八条院は、平治の乱(1159)の時に助命に動いてくれた池家に対する恩義を頼朝が忘れていないと伝え、しばらく身を隠すよう指示した。八条院が頼朝の名前を出せることは、頼朝の方からも頼盛を保護したいという意向が伝えられていたと考えられる。後白河院には、平時忠の弟親宗が側近にいるので、平氏の内情をよく知っている。頼朝も、平治の乱で頼盛の侍平宗清に保護され、池禅尼が助命に動いてくれたことを恩義と感じている。頼盛は平氏を離脱する可能性があるので、その場合は頼盛を助けたいと頼朝から後白河院に申し出ていた可能性は高い。

7月28日、院御所で評定が開かれた際、平頼盛をどうするかが議題のひとつに上がった。後白河院の意向は帰参により罪を免ずべしであり、多くの公卿は頼盛の帰参を認めなければ誰が降参するだろうかと罪を問わないことに賛同した(『吉記』)。八条院のもとに保護された頼盛は、最後まで随った家族や家人を伴って10月20日に鎌倉に下った(『百練抄』)。

■宗清

頼盛は一門の宗清(池禅尼に頼朝の除名を求めた)に鎌倉出立の同行を求めるが、宗清は、戦場に向うのであれば進んで先陣を承るが、平家零落の今、関東に参向するのは恥と存じると、これを断る。頼盛は、「苦々しうかたはらいたく患はれ」たと「平家物語」は記している。

宗清は頼盛の関東下向に従わず、屋島の一門のもとに参じている。


つづく

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