寿永2(1183)年
7月
・前々年・養和元年の大凶作で多くの餓死者が出ていた頃であり、そこへ兵6万が入り食料不足は深刻。兵士による食料略奪なども加わり市中は大恐慌状態。
7月2日
・義仲、比叡山(延暦寺)より味方するとの連絡受ける。6月10日付牒状に対する返牒。
7月2日
・藤原定家(22)、安楽寿院での鳥羽院国忌や7月7日の法勝寺御八講で堂童子を勤める(「吉記」)。
7月3日
・平資盛、従三位(非参議)叙任。資盛を新三位の中将、重衡を本三位の中将と呼ぶ。
7月8日
・平家、一門の公卿連署の願書を山門へ送る(「吉記」7月12日条、「百錬抄」)。平宗盛、比叡山延暦寺を氏寺・日吉社を氏社とする起請文送る。
7月9日
・「金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起す。頼政入道の党その中に在りと。殿下より院に申さる。また丹波すでに興盛と。」(「吉記」同日条)。
7月12日
・義仲率いる反平家の連合軍が近江勢多に兵を進める。
丹波方面には13日以前から足利判官代(ほうがんだい)矢田義清、14日には、伊賀に頼朝から離れ義仲と組んだ源行家、大和に参河(みかわ)冠者(源信親のぶちか)率いる軍が姿を現す。
義清は治承4年5月、以仁王の乱の時、頼政とともに宇治で平家軍と戦った経験もある武将で、義仲挙兵以来行動をともにしてきた西上野を本拠とする武将である。
義清は、若狭湾を西に進み山陰道に出て大江山(京都府西京区)に進出。丹波口には平忠度が100騎を率いて出陣していたたが、防ぐには軍勢が足りない(『玉葉』・『吉記』)。
大和源氏の源信親は養和元年(1181)から「奈良の悪僧」とともに反平家活動を展開していた。
伊賀では、行家進軍の前から、「金峰山・多武峯等の衆」が蜂起し、これに「頼政入道の党」(仲綱の子有綱・宗綱、仲綱の弟頼兼ら)も加わっていた(「吉記」7月9日条)
義仲らが都に迫ると、多田行綱(ゆきつな)が摂津・河内をほしいままにうろつき、河尻の船をみな差し押さえ、九州から運上の食糧米を押し取る動きを見せた。河尻は淀川と神崎川の分岐点、現在の大阪市東淀川区江口あたりの港で、西国から京に上る際には、当地で陸路を行くか、船で淀川を遡るかが選択された。近江に加え当地を押さえられると、京都への物資の搬入はストップし、都人は完全に干あがってしまう。河尻での出来事は平家の危機感をつのらせ、西に走らせる陰の原動力になった。
行綱は摂津多田荘(現兵庫県川西市)を本拠とする多田源氏である。『平家物語』によれば、安元3(1177)年藤原成親らが平家打倒を計画した際、鹿ヶ谷の謀議に参加したが、彼らの計画があまりに安直なことから、保身のため清盛に密告した人物である(巻1「鹿谷」、巻2「西光被斬」)。それがそのまま史実であるとは考えにくいが、機を見るに敏で去就に振幅の大きい男だったのは確かである。平家御家人だったが、院とも関係が深く、この時点で平家の行く末に見切りをつけ離反した。
7月13日
・近江国八島(滋賀県守山市)の所領にいた山田重貞は、源氏の軍勢が近づいてきたことに気づき、六波羅に駆け込んで報告した(延慶本『平家物語』)。山田重貞は美濃源氏であるが、一族を離れて平氏に従っていた。報告を受けた平氏は、平資盛・平貞能を宇治・宇治田原方面に派遣し、平知盛・平重衡を勢多に派遣した。平氏の軍勢は脱落が続いているのか、宇治田原に向かう平資盛・平貞能の軍勢は、兼実の僕従が数えたところ1080騎であったという(『玉葉』)。
7月14日
・東海道に入った行家の軍勢は伊賀国に進出し、この日、本拠地平田(三重県伊賀市)に残る平田家継(貞能の兄)と戦っていた(『吉記』)。
7月14日
・この日、吉田経房は、この危機が崇徳院怨霊によるものという話を聞いている(『吉記』)
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