2022年10月5日水曜日

〈藤原定家の時代139〉寿永2(1183)年5月 上総広常殺害 陳和卿による東大寺大仏再建開始 平家軍(追討軍)壊滅 般若野の合戦 倶利伽羅峠の合戦 志保山の合戦 「去る十一日、官軍の前鋒勝に乗り、越中国に入る。木曾冠者義仲、十郎蔵人行家、および他の源氏等迎へ戦ひ、官軍敗績し、過半死し了んぬと云々」(「玉葉」)   

 


〈藤原定家の時代138〉寿永2(1183)年4月 義仲討伐の北陸道追討軍進発 琵琶湖の東西から北陸に進軍 大将軍・侍大将のこと 杣工動員のこと 緒戦(義仲側の燧城陥落) より続く

寿永2(1183)年

5月

・宋の陳和卿を招き、東大寺大仏再建を開始

5月2日

・平家軍、義仲軍篠原の陣突破。

3日、義仲軍安宅の陣突破。加賀到着。

8日、平家軍先鋒の平盛俊、小矢部川で前方呉羽山に源氏軍が見え、手前の砺波郡般若野に布陣。

燧城を脱出した源氏方の北陸武士、越前平野を駆け抜け河上城(燧城40km、坂井郡丸岡町・金津町の境)に集結。平氏の追討軍は平泉寺斎明の道案内で追いつき城攻め。

「兵糧ナカリケレバ」(「源平盛衰記」)、北陸武士はここも脱出、三条野(金津町御簾尾(みすのお))に布陣。平家軍と小競り合い後、源氏方はみたび敗走、熊坂峠を駆け抜け加賀入り、江沼郡篠原宿(片山津温泉近く、海沿い)に布陣。

平氏はこれを追わず、近くの丸岡の長畝(のうね)に引き返し暫く休息。

5月9日

・般若野(富山県)の合戦。

加賀を席巻した平家軍に対して木曽軍は迎撃。先鋒今井兼平軍6千余騎、婦負郡般若野で平家軍先鋒越中前司盛俊5千余騎と遭遇。平家軍先鋒は今井軍の猛攻に死傷者2千余騎を残し加賀へ敗走。木曾軍勝利。

5月11日

・倶利伽羅峠の合戦(富山・石川)

平家軍本軍は加賀篠原で全軍を2手に分ける(越中平野で挟撃する作戦)。①平通盛・知度3万余騎:能登志雄山方面(能登・越中国境)に向い、義仲の背後をとるため。先鋒は武蔵有国。②平維盛・行盛・忠度7万余騎:砺波山方面(加賀・越中国境、安宅、美川、津幡)に向う。

この日、義仲軍は、般若野の先遣隊に合流(4万)、庄川べり(御河端、越中六渡寺(新湊)の渡し)に越中豪族と軍議。搦手軍(源行家・楯六郎親忠軍)は、竹の橋、森下村周辺で宿営。竹の橋から礪波山西側へ移動し、樋口隊と合流後、平家軍背後へ廻る。先遣隊今井兼平・星名党軍6千余騎、鷲ヶ瀬・日埜宮林に布陣し、石坂から峠路を大手、猿ヶ馬場へ向かう。

昼頃、平家・砺波山方面軍が砺波山頂に到着(麓の日埜宮林には源氏軍)。平家軍第一線は猿ヶ馬場・鷲尾獄(源氏ヶ峰)から塔の橋・埴生大池付近。鷲尾岳で塔の橋を挟んでで今井軍と日没迄矢合わせ(他の軍は対峙したまま)。

義仲、軍を7手に分ける。義仲・余田次郎軍1万騎は小矢部川近く埴生村に(長楽寺の側面)。仁科・高橋・山田ら7千余騎は北黒坂へ。樋口兼光・落合ら7千余騎は南黒坂(搦手)。黒坂口へ1万騎。根井小弥太を彌勒山へ。源行家1万騎、志保山へ。(源行家・楯六郎親忠の兵を志雄山へ向け、兼遠・兼光・巴らを敵後方・側方へ移動させ、夜半を待ち一斉挟撃のため待機させる)

夜半、義仲軍は礪波山(倶利加羅峠)で「単田火牛の計」(数百頭の牛の角に松明を括り付け、敵中に荒れ狂う牛を追い入れる)をとり、平家軍は総崩れ。

*「火牛の計」は『源平盛衰記』が『史記』田単伝から得た創作と考えられる。

義仲は裏切った平泉寺の長吏・斉明威儀を殺害。

12日、志保山の合戦(搦手)

志保山では平知度軍3万が行家軍1万に対し優勢であるが、駆けつけた義仲軍が安宅渡・篠原の平家軍急襲、大将平知度が討死、夕刻、平家軍壊滅。平家軍、大野・金石(金沢港)方面へ敗走。"

この夜襲で、平清盛の子三河守知度が討死。延慶本『平家物語』は官位を持つ者160人、名だたる武者2千人失われたという。

藤原忠清の子3人(上総大夫判官忠綱、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清)、従軍。倶利伽羅峠の合戦で忠綱、戦死。

「去る十一日、官軍の前鋒勝に乗り、越中国に入る。木曾冠者義仲、十郎蔵人行家、および他の源氏等迎へ戦ひ、官軍敗績し、過半死し了んぬと云々」(「玉葉」寿永2年5月16日条)

源平合戦に限らず、中世の合戦の具体的経過をたどることは、ごく一部の例外を除いて不可能である。参戦者の証言は一般的に、自己宣伝と自己弁護が多い。軍記も見てきたような嘘が多く信用できない。貴族たちの日記は、史料としては信用できるが、戦場からはるかはなれた伝聞が多く、戦闘に関心が薄いので記事もまことに簡略である」(高橋昌明『都鄙大乱』)

「父落とせば、子も落とす。主落とせば、郎等も落とす。馬には人、人には馬、いやが上に馳せ重なって平家一万八千余騎、十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳せ埋みける。たまたま谷を遁るる者は兵杖を免れず、兵杖を遁るる者は皆深谷へこそ落ち入りけれ。前に落とす者は今落とす者に踏み殺され、今落とす者は後に落とす者に押し殺さる」(「源平盛衰記」)

「「今は思ふことなし。ただし十郎蔵人殿の志保のいくさこそおぼつかなけれ。いざ行[ゆ]ひてみん」とて、四万余騎が中より馬や人をすぐって、二万余騎で馳向かう。・・・案のごとく十郎蔵人行家、さんざんにかけなされ、ひき退いて馬の息休むるところに、木曽殿「さればこそ」とて、荒手二万余騎が中へおめいてかけ入、もみにもうで火出る程にぞ攻めたりける。」(『平家物語』巻第7「倶利伽藍落」)

平泉寺長吏斉明、義仲に捕らわれ処刑。養和元年(1181)9月平通盛軍が義仲追討のため越前~加賀に進撃した際は義仲方に寝返り背後から通盛軍を襲撃。この年4月南条郡燧城合戦では逆に平氏に内応、加賀に侵攻。北陸道での戦いでは平泉寺が重要な軍事的役割を果たす。

平泉寺の軍事集団化:

武士団の寺院内への流入が背景。長吏斉明は越前の武士団河合系斎藤氏の出身、叔父に白山長吏広命、甥に平泉寺長吏実暹がいる。実暹は長吏職を「相伝の所帯」と称す(「天台座主記」)。斉明とほぼ同時期に疋田系斎藤氏からも平泉寺長吏賢厳が出て、この時期に越前斎藤氏が平泉寺を掌握。寺僧同士の武力対立(「百練抄」嘉応2年閏4月3日条)を経て斎藤氏一族の覇権確立。


つづく


0 件のコメント: