〈藤原定家の時代149〉寿永2(1183)年7月29日 平氏追討の論功行賞 頼朝勲功第一、義仲第二、行家第三 新たな対立(後白河と義仲、頼朝と義仲、義仲と行家) より続く
寿永2(1183)年
7月29日
「左大臣仰せに云く、條々の事計り申すべしてえり。一、仰せに云く、今度の義兵、造意頼朝に在りと雖も、当時成功の事は、義仲・行家なり。且つは賞を行わんと欲せば、頼朝の欝測り難し。彼の上洛を待たんと欲す。また両人賞の晩きを愁うか。両ヶの間、叡慮決し難し。兼ねて又、三人の勧賞等差有るべきか。その間の子細計り申すべしてえり。人々申して云く、頼朝参洛の期を待たるるべからず。彼の賞に加え、三人同時に行わるべし。頼朝の賞、もし雅意に背かば、申請に随い改易し、何の難有らんや。その等級に於いては、且つは勲功の優劣に依って、且つは本官の高下に随い、計り行わるべきか。惣てこれを論ず。第一頼朝、第二義仲、第三行家なり。頼朝(京官、任国、加級、左大臣云く、京官に於いては、参洛の時任ずべし。余云く、然るべからず。同時に任ずべし。長方これに同ず)義仲(任国、叙爵)行家(任国、叙爵、但し国の勝劣を以てこれを任じ、尊卑差別すべしと。實房卿云く、義仲従上、行家従下宜しきか)
一、仰せに云く、京中の狼藉、士卒巨万の致す所なり。各々その勢を減すべきの由、仰せ下さるべきの処、不慮の難、恐るる所無きに非ず。この為如何。兼ねて又縦え人数を減せらると雖も、兵粮無くば、狼藉絶うべからず。その用途また如何。同じく計り奏せしむべしてえり。人々申して云く、今に於いては、余党の恐れ、定めて群を成すに及ばざるか。士卒の人数を減さる。上計と謂うべし。兵粮の事、頗る異議有り。忠親・長方等云く、各々一ヶ国を賜いその用途に宛つべし。余難じて曰く、勧賞任国の外、更に国を賜うの條如何。両人云く、その用訖わらば、他人に任ぜらる。何の難有り。余曰く、理然るべし。但し彼等定めて収公の恨みを含むか。ただ没官地の中、然るべきの所を撰び、宛給うべきか。然らずんばまた一ヶ国を以て、両人に分賜すべきか。但しこの條頗る喧嘩の基たるか。猶没官の所を賜うこと宜しかるべし。左大臣云く、両方の議各々然るべし。勅定に在るべし。」(「玉葉」同日条)
洛中警護・治安維持命令。
源有綱、(美濃・尾張源氏)土岐光長、高田重家・泉重忠、葦敷重隆、(甲斐源氏)安田義定、(信濃源氏)村上信国、(信濃平氏)仁科盛家、(近江源氏)山本義経・柏木義兼、源行家、源義仲。
入京した軍勢による京中守護の分担
①頼政卿孫右衛門尉有綱 「大内裏、替川に至る」。
②高田四郎重家・泉次郎重忠「一条より北。西朱雀より西、梅宮に至る」。
③出羽判官光長「一条より北。束洞院より西、梅宮に至る」。
④安田三郎義定「一条より北。東洞院より東、会坂(おうさか)に至る」。
⑤村上太郎信国「五条より北。河原より東、近江境に至る」。
⑥葦敷太郎重隆「七条より北、五条より南。河原より東、近江境に至る」。
⑦十郎蔵人行家「七条より南。河原より東、大和境に至る」。
⑧山本兵衛尉義経「四条より南、九条より北。朱雀より西、丹波境に至る」。
⑨甲賀入道成覚(柏木義兼)「二条より南、四条より北。朱雀より西、丹波境に至る」。
⑩仁科次郎盛家 「鳥羽四至の内」。
⑪義仲「九重の内。ならびに此の外の所々」。
彼らはいずれも義仲配下の武士ではなく、独自の行動をとって入京してきた自立性の強い勢力であり、院政期に京武者として都で活動してきた軍事貴族の一族が多く含まれている。また、頼朝と下野国野木宮で戦って敗れ、義仲のもとに身を寄せていた常陸国の志太義広(行家の兄)や、行家と結んだ河内石川源氏の石川義兼も入京している。
義仲が指揮する軍勢は、反乱軍から官軍に性格を変えたが、このように「国守級の軍事貴族の混成軍団」に膨れ上がったことにより、義仲の統制力が弱まり、都は大きな混乱に陥ることになる。
「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金銅追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。成範卿院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わす。また内々貞能の許に仰せ遣わすの旨等有りと。京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。源三位入道子息 大内裏(替川に至る) 高田四郎重家・泉次郎重忠 一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。 出羽判官光長 一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。 保田三郎義定 一條北より、東洞院東より、会坂に至る。 村上太郎信国 五條北より、河原東より、近江境に至る。 葦数太郎重隆 七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。 十郎蔵人行家 七條南より、河原東より、大和境に至る。 山本兵衛尉義経 四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。 甲斐入道成覺 二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。 仁科次郎盛家 鳥羽四至内。 義仲 九重内、並びにこの外所々。已上義仲支配すと。」(「吉記」同日条)
院の議定。九条兼実も召されて八条院を通じて内々の申入れ。清盛クーデタで配流された基房は子の師家を摂関に推す。結果は基通の留任となる。都落ち前から、後白河院と基通の関係は緊密になる。兼実は摂関になる第2回目の機会を逸す。以降、兼実は、病気を理由に議定への出席を断る。その後、法住寺クーデタ後は、師家が摂政となり、義仲滅亡後は基通が再び摂政となる。
兼実が入手した基通留任の理由:
①7月20日頃法皇を西海に連れ出す平氏の計画を基通が法皇に密告。
②法皇が基通に「愛念」(男色)を抱き、それにより引き立てられる。「君臣合体の儀、これを以て至極となすか、古来かくのごとき蹤跡無し」と指弾。
「伝聞、摂政二ヶ條の由緒有り。動揺すべからずと。一は、去る月二十日の比、前の内府、及び重衡等密議に云く、法皇を具し奉り海西に赴くべし。若しくはまた法皇宮に参住すべしと。此の如きの評定を聞き、女房(故邦綱卿愛物、白川殿女房冷泉局)を以て密かに法皇に告ぐ。この功に報いらるべしと。一は、法皇摂政を艶む。その愛念に依って抽賞すべきと。秘事、希異の珍事たりと雖も、子孫に知らしめんが為記し置く所なり。」(「玉葉」8月2日条)。
「又聞く、摂政、法皇に鐘愛せらるる事、昨今の事に有らず、・・・去る七月御八講のころより御艶気あり、七月二十日ころ御本意を遂げらる。去る十四日参入の次いでに、又艶言御戯れ等ありと云々。事の体、御志浅からずと云々、君臣合体の議、これを以て至極となすべきか、古来かくの如きの蹤趾なし、末代の事、皆以て珍事なり、勝事なり・・・」(「玉葉」8月18日条)。
つづく
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