2022年10月9日日曜日

〈藤原定家の時代143〉寿永2(1183)年7月20日~23日 宗盛・重衡が都落ち密議 京都四方の守り(忠度、資盛・師盛・貞能、知盛・重衡、頼盛) 義仲が東坂本到達 行家が大和から北上 行綱らは河尻であばれる 後白河が法性寺殿に移る   

 

2010-01清水寺

〈藤原定家の時代142〉寿永2(1183)年7月 京都に危機迫る 反平家連合軍が京都へ進出(近江勢多に源義仲、丹波に矢田義清、伊賀に源行家、大和に源信親) 摂津・河内では多田行綱が運上米を押領 より続く


寿永2(1183)年

7月20日

・この頃、宗盛と重衡が都落ちを密議。

「去月(七月)二〇日比(ころ)、前内府(宗盛)および垂衡ら密議して云はく、法皇を具し奉り海西に赴くべし、もしくはまた法皇宮に参り住むべし」(『玉葉』寿永2年8月2日条)

7月21日

・源義仲入京への防御体制(四方の守り)

・この日、資盛(維盛の弟、小松家)と貞能が、近江へ出陣。

貞能は養和元年以降、大宰府を脅かした菊池隆直と彼に同意する肥後勢の追討に従事し、ようやくそれらを下して上京してきた。その軍は強大で、世間では7,000~8,000騎あるいは1万騎かと見られていたが、兼実の使用人が街頭で密かに数えたところ、わずか「その勢千八十騎」に過ぎなかったという(『玉葉』)。資盛らは当初、木津川東岸の青谷(あおだに、京都府城陽市)を経て田原道を北東に進み、勢多に抜けるはずだったが、南大和の行家軍の入洛を警戒し、宇治橋西方の一の坂に留まった。

翌22日昼ごろ、勢多の敵に向かって知盛・重衡ら2,000騎が、夜に入ってさらに頼盛が兵を進めた。彼らはその晩それぞれ山科に宿営。

一方、丹波方面では、忠度が矢田義清の勢に圧倒され、丹波・山城境の大江山(京都市と亀岡市の境)に引き退いている。100騎ばかりの小勢では、いかんともしがたい。

そうこうしているうち、宇治の貞能は多田行綱の活動を鎮めるため、八幡(八幡市)の南、おそらくは洞ヶ峠を越えて淀河尻方面に向かった。これは都落ち前途の障害を、あらかじめ除いておくための措置だった。

22日か23日、貞能と同行していた資盛に後白河から「貞能を相具(あいぐ)して帰参すべし」との院宣(いんぜん)(院司が上皇・法皇の命をうけて出す奉書形式の文書)が発せられた。宗盛は「資盛は宣旨を給って出陣した追討使だから、院から引き上げさせればよろしいが、貞能ら「自余(じよ)の輩」は平家が私的に派遣した、だから宗盛が直に召し返す」と異議を唱えている。

一方で後白河院は、多田行綱にも院宣を遣わす。行綱は自らにかけられた「叛逆」の噂を否定し、「その件は、軍兵がやってくるという噂で、近辺の下賤の者たちが走り願いでいるのだろう、早く制止を加えるべきである」と弁明した。しかしその様子はやはり「叛くがごとし」であった(『吉記』24日条)。院は、淀河尻方面の混乱を収拾し、あわせて近習化していた資盛らの率いる軍を、自分の身辺警固に利用しようと考えたのかもしれない。

「今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。」(「吉記」同日条)。

「午の刻、追討使発向す。三位中将資盛大将軍として、肥後の守定能を相具し、多原方に向かう。予の家東小路(富小路)を経る。家僕等、密々見物す。その勢千八十騎と (慥にこれを計うと)。日来、世の推す所七八千騎、及び万騎と。而るに見在の勢、僅かに千騎、有名無実の風聞、これを以て察すべきか。」(「玉葉」同日条)。 

①丹波道追討:平忠度百騎が山城・丹波国境の大江山へ、無駄な戦闘を避け洛中へ引く。

②近江道追討・宇治防御:平資盛・師盛・貞能1千余、源行家軍の進軍を待つ。

③勢多防御:平知盛・重衡・頼盛の2千余。

④山科防御;頼盛

7月22日

・義仲軍、近江に入って湖東を進撃、この日、東坂本に着き、味方の大衆と共に比叡山に登る勢いを示す(「吉記」同日条)。

「源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言(知盛)・三位中将(重衡)等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及ぶと。また夜に入り按察大納言(頼盛)下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。」(「吉記」同日条)。 

加賀の林・倉光・井家・津幡、能登の土田・日置・式部、越中の石黒・野尻・河上・宮崎が義仲軍に参加。能登の得田章通・越中の藤原定直などは、義仲下文で所領安堵され、信濃武士は義仲自身が所領安堵、能登・越中武士等は主人(頼朝)の上意を下達する奉書の形式で安堵。

一方、大和に入った源行家は、吉野衆徒の与力を得て京都へ北上、多田行綱ら摂津・河内の源氏も、河尻(大阪府豊能町)で船を差し押さえる動きをみせ、京都の平氏は諸方の源氏軍勢に包囲される

「また聞く、十郎蔵人行家大和の国に入り、宇多郡に住す。吉野の大衆等与力すと。仍って資盛・貞能等、江州に赴かず。行家の入洛を相待つと。貞能去夜宇治に宿し、今朝多原地に向かわんと欲するの間、この事有り。仍って彼の前途を止め、この入洛を相待つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱、日来平家に属く。近日源氏に同意するの風聞有り。而るに今朝より忽ち謀反し、摂津・河内両国に横行す。種々の悪行を張行し、河尻船等併せて点取すと。両国の衆民皆悉く与力すと。また聞く、丹波の追討使忠度、その勢敵対に非ざるの間、大江山に帰りをはんぬと。凡そ一々の事、直事に非ざるか。今日、上皇宮卿相参集し、議定の事有りと。」(「玉葉」同日条)。 

7月22日

・この日夜、宗盛は建礼門院のいる六波羅の池殿に行き、「人々は、ただ都の内にていかにもならんと、申し合されけれども、まのあたり女院・二位殿に、憂き目を見せ参らせん事のくちをしく候へば、院をも内(天皇)をも取り奉って、西国の方へ御幸・行幸をもなし参らせばやと、思ひなってこそ候へ」と言う。女院はこれに従うよりほかはない。

7月23日

・この日か翌24日、『源平盛衰記』によると、近江の敵軍が東坂本(大津市坂本)から比叡山に登って京都に圧力をかけはじめると、重衡は山科から撤兵、勢多まで進出していた知盛も北国勢との小競り合いのうえ退く。

7月23日

・後白河、法性寺殿に移る

「六波羅の辺、歎息の外他事無しと。今旦、法皇法性寺御所に渡御すと。世間物騒に依ってなり。」(「玉葉」同日条)。  


つづく





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