〈藤原定家の時代147〉寿永2(1183)年7月25日 平家の都落ち それぞれの都落ち③(資盛・貞能、基通・信基、公卿たち) より続く
寿永2(1183)年
7月26日
・福原で平宗盛演説。平清盛の法会後邸を焼く。
福原で一夜を明した一行は、福原の内裏に火をかけ、天皇以下みな船に乗った。
「昨日は、東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は、西海の浪の上に纜(ともづな)をといて七千余人、雲海沈々として青天已に暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて、月海上に浮べり。極浦(きよくほ)の浪を分け、潮に引かれて行く船は、半天の雲にさかのぼる。日数ふれは、都は山川ほどを隔てて、雲居の余所にぞなりにける。はるばる来ぬと思へども、たゞ尽きせぬものは涙なり。」(「平家物語巻7)
7月26日
・この日、兼実は定能卿より比叡山の法皇の許に来るべしとの連絡を受ける。急ぎ西坂本から山に登る途次、雲母坂で下山中の前権中納言源雅頼(まさより)に出会い次のような話を聞く。
「神璽・寶劔・内侍所は「賊臣」(平家)にみな盗み取られてしまった。このうえは有無をいわさず平氏を追討すべし、との法皇の仰せだが、はなはだ不都合なことだ。そこで(雅頼が)、先ず剣璽が取戻せるよう安全の沙汰をされるべきだ、と申し上げたところ、それならと親宗を以て御教書を(摂津源氏の)多田蔵人行綱のもとに遣わされた。しかしこれも手荒い沙汰と思われたので、重ねて法皇に、そのことを女院(建礼門院)もしくは時忠卿のもとに仰せ遣わされたらいかが、と申上げたところ、了承して頂いた。」
兼実はその日成刻(午後8時ころ)登山して法皇御所に着き、見参して剣璽などのことについて所信を述べた。
いまや法皇にとって平氏は神器を奪って逃げた賊徒であった。
源雅頼は兼実と親しい人物で、家人に中原親能(ちかよし、明法博士中原広季の養子、同じく養子の大江広元とは兄弟)がいる。親能は、相模の波多野経家(豊後大友氏の祖)に養われて成長、その婿になる。流人頼朝とは「年来の知音(ちいん)」、やがて上京して官仕し、斎院次官を経て雅頼の家人となる。治承4年(1180)12月追捕されそうになり京都を脱出、頼朝の側近となる。兼実は雅頼を介して、親能からの関東情報を入手できた。
「払暁日野に向かわんと欲するの間、その路を切り塞ぐに依って、首途に能わず。この間、昨日帰京の武士等。成すこと無くしてまた逃げ去りをはんぬ。・・・辰の刻、法性寺に帰る。巳の刻、定能卿札を送りて云く、御参の事奏聞しをはんぬ。早く御参有るべし。入道関白同じく参入せらるる所なりと。楚忽に出立す。・・・路頭に於いて源納言(その息兼忠を相具す)に逢う。納言云く、神璽・寶劔・内侍所、賊臣悉く盗み取り奉りをはんぬ。而るに左右無く平氏を追討すべきの由、仰せ下さるの條、甚だ不便。先ず劔璽安全の沙汰有るべし。仍ってこの旨を奏聞し勅許有り。親宗を以て御教書を多田蔵人大夫行綱の許に遣わしをはんぬ。この事猶荒沙汰なり。仍って内々女院、若しくは時忠卿(件の卿賊に伴う)の許に仰せ遣わさるべきの由、重ねて以て奏聞す。然るべきの由仰せ有りと。戌の刻、東塔南谷青蓮院に到る。・・・余暫く休息の後、法皇御所(圓融房、これ座主房なり)に参る。路の間、前駈等松明を取り前行す。この程四五町ばかりなり。」(「玉葉」同日条)
「山僧等京に下る。路次の狼藉勝計うべからず。或いは降将縁辺と称し放火し、或いは物取追捕と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。」(「吉記」同日条)
7月27日
・比叡山上の院御所(円融房)での公卿僉議のあと、後白河法皇、京へ戻り蓮華王院(三十三間堂)を御所とする。
「余また云く、今に於いては、義仲(木曽)・行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止し、早く入京すべきか。その後早速還御有るべし。・・・未の刻、定能卿告げて云く、連々日次無きに依って、今日俄に還御(明日復日、明後日御衰日、晦日に至るの際、甚だ懈怠すべきの故なり)、即ち以て出御す。余御幸の後、同じく以て山を出る。戌の刻、法性寺に到る。」(「玉葉」同日条)
7月28日
・義仲・行家、入京
東(瀬田)から義仲の本隊、南(伊賀~宇治)から行家の軍勢、北西からは矢田義清の軍勢が都を目指し、朱雀大路で合流、入洛を果たす。
先陣は近江源氏の錦織(にしごり)義高。頼朝に先立つ入洛。軍勢総勢6万。
義仲、行家、矢田義清、盾親忠、根井小弥太、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、大夫房覚明、巴御前、源三位頼政の孫の右衛門尉有綱、近江源氏の山本兵衛尉義経、美濃源氏の土岐光長、尾張源氏の高田四郎重家、甲斐源氏の保田三郎義定、信濃源氏の村上太郎信国ら。
人々は、義仲を「旭将軍」と称える。義仲、六条堀河の元美福門院邸を貰う。夜、六波羅(六波羅蜜寺・常光寺)焼失。
叡山から戻った後白河法皇、蓮華王院御所で義仲・行家に引見、平家追討の院宣を下す。この時を境に、義仲と行家が官軍となり、安徳天皇を擁する平氏が謀反人となった。義仲は、平氏追討のために必要な協力を諸国の国衙に対して要請できるようになった。
この時、鎌倉にいた頼朝も朝敵ではなくなり、平治の乱で除籍された従五位下行右兵衛権佐の官位を前職として回復した。ただ、後白河院は高倉宮以仁王をこの範囲に含めなかった。賜姓源氏を撒回して王族に戻したものの、謀反人の罪過は解消しなかった。後白河院の頭には安徳天皇の後継問題があり、北陸宮という新たな要素にどう対処するかを考え始めていた。
義仲の入京により、後白河院は新たな政治的課題と直面する。義仲は以仁王の遺児北陸官を奉じた戦いをしてきたので、安徳天皇を継ぐのは北陸宮であった。義仲は、京都の人々は北陸宮を受け入れてくれると思っていた。後白河院は京都を離れた安徳天皇の在位を認めない立場をとり、一日も早く次の天皇を即位させなければならないと考えていた。かといって、北陸官・木曽義仲の主張を認めることは、以仁王挙兵の正当性を認めることになる。後白河院が朝廷の秩序回復を最優先に考える以上は、義仲の発言力を強める人物を即位させるわけがなかった。義仲が北陸宮の即位を考えているかぎり、後白河院との間に提携の余地はなかった。
『平家物語』巻8によると、このとき義仲・行家らは法皇に宿所のないこと奏聞し、義仲は大膳大夫成忠の六条西洞院邸、行家は法住寺殿の南殿、萱の御所を与えられたというが、おそらくその部下たちはそれぞれの宿所にあふれ、それが兵粮不足とあいまって、「京中狼籍、士卒巨万の致す所」となった。
「二十八日 庚寅 天晴れ。今日義仲行家ら、南北より(義仲北、行家南)入京すと云々。晩頭左少弁光長来たり語りて云はく、義仲行家らを蓮華王院の御所に召し、追討の事を仰せ遣はさる。大理殿、上の縁にてこれを仰す。かの両人地に跪きこれを承る。御所たるに依りてなり。参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出するの間、頭の弁兼光京中の狼藉を停止すべきの由仰すと。」(「玉葉」同日条)
「申の斜め武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂を着し、黒革威の甲、石打箭を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂劔を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上す。・・・大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯と称し退き入る。」(「吉記」同日条)
この時、中原親能が頼朝と後白河院との交渉使者となる。
□源行家が宇治橋から、足利義清が木曽義仲の軍勢として丹波方面の老いの坂より入京(「山門行幸」「平家物語」巻8)。
「さる程に、十郎蔵人行家、千騎で宇治橋を渡って都へ入る。陸奥新判官義康が子矢田判官代義清、大江山を経て上洛す。摂津国・河内国の源氏等同心して都へ乱れ入る。凡そ京中には源氏の勢満ち満ち足り。
勘解由小路中納言経房卿・検非違使別当左衛門督実家、院の殿上の簀(スノコ)に候ひて、義仲・行家を召す。木曽は赤地の錦の直垂に、唐綾鍼(オドシ)の鎧著て、いか物作りの太刀を帯き、廿四差いたる切斑(キリフ)の矢負ひ、滋籘の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけて、跪いてぞ候ひける。十郎蔵人行家は、紺地の錦の直垂に、緋鍼の鎧着て、金作りの太刀を帯き、廿四差いたる大中黒の矢負ひ、塗籠籘の弓脇に挟み、是も甲をば脱いで高紐にかけて、畏まってぞ候ひける。前内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき仰せ下さる。両人庭上に畏まって承って罷り出づ。」
つづく
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