2022年10月15日土曜日

〈藤原定家の時代149〉寿永2(1183)年7月29日 平氏追討の論功行賞 頼朝勲功第一、義仲第二、行家第三 新たな対立(後白河と義仲、頼朝と義仲、義仲と行家)     

 

2016-08 宇治、平等院

〈藤原定家の時代148〉寿永2(1183)年7月26日~28日 平家都落ち後の京都 「眼前に天下の滅亡を見る。」(「吉記」) 義仲・行家ら入京 後白河は平家追討の院宣を下す より続く

寿永2(1183)年

7月29日

「上総の介忠清・検非違使貞頼等出家す。忠清は能盛の許に在り。貞頼は兼毫法印の許に在りと。然るべき輩等多く付かざるの由、その聞こえ有り。今夜祇園中路五條坊門以南焼亡す。六波羅密寺同じく以て焼亡す。また一日焼け残る所故正盛朝臣(常光院)焼亡すと。」(「吉記」同日条)

同日(7月29日)

・後白河法皇、院にて廷臣を集め平氏追討の論功行賞。

頼朝勲功第一、義仲第二、行家第三(この戦いを頼朝の「造意(企て)」とする解釈)。頼朝と後白河院との密使のやりとりは、養和元年(1181)から確認されている。両者は、内乱終結の方向性で合意していた。義仲は、後白河院と頼朝が密使のやりとりをして意見調整を行ってきたことを知らなかった。

八条院は三位局の子ではない北陸官に対して冷淡であり、北陸宮を後見する藤原重季の姻戚右大臣九条兼実は静観を決め込んでいた。

後白河院は、乱れた皇位継承問題を自分が制御できる人物の登用によって回復したいと考えていた。そして、安徳天皇を上皇として京都に還御させ、次の天皇に対して禅譲を行わせることで、皇位継承の正当性を確立しようともくろんでいた即位する天皇の条件は、後白河院が院政を行える、制御可能な人物ということになる。後白河院はこの課題を解決するために、平氏との和平も視野に入れていた。平清盛を奸臣と決めつけた以仁王の後継者より、朝廷の秩序回復のためには源平並立の時代に戻ることを認める源頼朝の方が好ましい交渉の相手であった。それゆえに、密使の交換によって相互の意向を確認している源頼朝を、第一の功労者にしたかった。

当初の反乱は王権回復のための正義の戦いと認められる。義仲軍の兵士達は、飢饉で食料などを略奪暴行。義仲の京での素行の悪さの為、義仲の評判が落ち、頼朝の評判上がる。覚明・北陸武士は離軍。

「在々所々を追捕し、衣装をはぎとって、食物をうばい取りければ、洛中の狼籍なのめならず」(延慶本『平家物語』・長門本『平家物語』)

〈新たな対立:後白河と義仲、頼朝と義仲、義仲と行家〉

7月30日、平氏追討の恩賞に関する会議が蓮華王院御所で行われた。勲功第一とされた頼朝は従五位下行前右兵衛権佐の官位を持つので、京官(中央の官職)ないし国司補任と位階の昇進、勲功第二の義仲は無位無官なので従五位下の叙爵と国司補任、勲功第三の行家は正六位上の位階と八条院蔵人の役職を持つので従五位下への昇進と国司補任が提示された。

この案は、無位無官の義仲が官位を持つ行家と並ぶので、義仲を厚遇したことになるが、義仲と行家を同じ官位に並ばせることは、義仲の受け入れる案ではなかった。

三条実房は、義仲に対して従五位上の位階を授け、大国の国司に補任すべきことを修正案として提示した。勲功賞の結果は二人の将来に大きな影響を与えるので、義仲が頼朝の下位に甘んじることはないだろう。ゆえに、三条実房が言うように、義仲の功績を重んじて頼朝と位階だけ並ばせるのは、問題の少ない対処法であった。しかし、後白河院は頼朝と義仲との間に軋轢を起こしたい。

義仲入洛後、後白河院と義仲の対立、頼朝と義仲のつばぜり合い、さらに、当初から二人の格下として扱われていた行家がこの人事に不満を持ち、籠居して抗議の姿勢を示し混乱に拍車をかけた。

後白河院の揺さぶりは功を奏し、この時に義仲と行家の問に走った亀裂は、最後まで修復されることがなかった。


つづく

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