2022年10月7日金曜日

〈藤原定家の時代141〉寿永2(1183)年6月 義仲の延暦寺工作 平氏支持から留保条件付きで源氏支持に傾く 「肥後の守貞能今日入洛す。軍兵纔に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人頗る色を失うと。」(「吉記」)   

 


〈藤原定家の時代140〉寿永2(1183)年6月 篠原の合戦 「前の飛騨の守有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びるの武士、僅かに四五騎ばかり、その外過半死傷す。その残り皆悉く物具を棄て山林に交る。大略その鋒を争う甲兵等、併しながら以て伐ち取られをはんぬと。盛俊・景家・忠経等(已上三人、彼の家第一の勇士等なり)、各々小帷ニ前ヲ結テ、本鳥ヲ引クタシて逃げ去る。希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の體直なる事に非ず。誠に天の攻めを蒙るか。敵軍纔に五千騎に及ばずと。彼の三人の郎等、尤も将軍等、権盛を相争うの間、この敗有りと。」(「玉葉」) より続く

寿永2(1183)年

6月6日

・後白河院は諸卿を院御所に集め、追討失敗の対応策を議論。兼実は病のため出仕せず、意見をまとめた文書を提出。兼実の現状認識は、「士卒、その力追討に疲れ、忽ちには叶いがたし」で再度追討使を編成することは困難であるとし、「伊勢・近江両国に各辺将を置き、中夏を守らしむべし」と京都防衛の前線として伊勢・近江の守りを固めることを提案(『玉葉6月9日条』)。当日出席した諸卿も、追討使は休ませるべきであると同じ見解を示していた(『吉記』)。

6月10日

・義仲軍、越前国府 (福井県武生市)で協議。山門(叡山)の動向が不明のため(叡山は平氏と誼を通じ、叡山を敵に回すと寺門(園城寺)・南都をも敵に回す恐れがある)。大夫房覚明の提案で比叡山山門に牒状(勧告書)出す(覚明が書き、山門への使者となる)。

延暦寺は、京都の朝廷と、越前国府に帯陣する義仲の間にあり、今後の戦いの展開に大きな影響を与える存在であった。この時期、延暦寺は朝廷の依頼を受けて、怨敵調伏の五壇法や賊徒降伏の薬師経千僧供養など鎮護国家の読経・修法を行っていた(『玉葉』『吉記』)。呪誼調伏の対象は義仲であり、義仲が延暦寺を現政権支持と判断するのも無理のないことであった。

義仲は腹心の大夫房覚明(たいふぼうかくみよう)と相談し、延暦寺を味方につけるべく交渉をはじめた。覚明は、冶承4年の以仁王事件で、園城寺(三井寺)が嗷訴への参加を呼びかけた牒状に対して興福寺が与力する趣旨の返牒を起草した。覚明は、このことが原因となって東国に逃亡した興福寺大衆信救(しんぎゆう)が改名した名前である。覚明は延暦寺大衆の中から味方を見いたすことで京都進韓の道を開こうとした。

「源義仲、謹みて申す。親王の宣を奉わりて平家の逆乱を停止せしめんと欲すること。右、平治以来、平家跨張の間、貴賤手をささげ、緇素足を戴く。忝く帝位を進止し、恣に諸国を虜掠す。あるいは権門・勢家を追捕して、恣に恥辱に及ばしめ、あるいは月卿雲客を搦め捕りて、行方を知らしめることなし。なかんずく治承三年十一月、法皇の仙居を鳥羽の南宮に移し、博陸の配所を夷夏西鎮に遷す。…(平家の専横を説く)…今叡岳の麓を過ぎて洛陽の衢に入るべし。此時にあたってひそかに疑殆あり。抑天台衆徒、平家に同心歟、源氏に与力歟。若し合戦をいたさば叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲しき哉、平氏宸襟を悩まし、仏法をほろぼす間、悪逆をしづめんがために義兵を発す処に、忽ちに三千の衆徒に向って、不慮の合戦を至さん事を。痛ましき哉、医王、山王に憚り奉って、行程に遅留せしめば、朝廷緩怠の臣として、武略瑕瑾のそしりをのこさん事を。みだりがはしく進退に迷って案内を啓する所なり。乞ひ願はくは三千の衆徒、神のため、仏のため、国のため、君の為に、源氏に同心して凶徒を誅し、鴻化に浴せん。」

6月11日

・養和元年(1181)から追討使として九州平定にあたっていた肥後守平貞能、1千余を率いて鎮西から福原着。18日、入洛。兵の数の少なさに京中の人々は落胆する。

「肥後の守貞能今日入洛す。軍兵纔に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人頗る色を失うと。」(「吉記」同18日条)。

6月11日

・後白河法皇、延暦寺で源氏追討祈願。源氏軍加担の隠蔽。

6月13日

「源氏等すでに江州に打ち入る。筑後の前司重貞単騎逃げ上ると。」(「吉記」同日条)。

6月17日

・義仲の本隊、叡山に圧力をかけるため蒲生野(滋賀県)へ進む。叡山の大衆僉議では、座主以下、平氏を支持するものが多く、山門の大勢は平氏味方に傾き、使者覚明が、山門の情勢を義仲に伝える。

「世口嗷々驚かず。洛中上下東走西馳す。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。静巖已講只今下洛示し送りて云く、日来江州に入る源氏ハ末々の者なり。木曽の冠者すでに入りをはんぬ。但し叡山衆徒相議(悪僧に於いては皆源氏に同ず。これ中堂衆等なり。去る頃北陸道より帰山す)し、源平両氏和平有るべきの由、僧綱已講を以て奏聞せんと欲す。この事もし裁許無くんば、一山源氏に同ずべしと。」(「吉記」6月29日条)。

6月29日

・後白河・平氏・義仲の三方から話を持ちかけられていた延暦寺は、後白河院に対して、源氏と平氏の和平をはかること、これが実現しない場合には源氏に与することを伝えた。鎮護国家の役割を担う権門寺院が、現政権が京都を守るために近江国で戦うのであれば、反乱軍に付くと伝えてきた(『吉記』)。留保の条件はつけているが、平氏を実質的に見限ったことを伝える最後通牒である。


つづく

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