寿永2(1183)年
8月5日
・平家関係者の所領の没収が始まる。
この日(8月5日)、後白河は院宣をもって、大和国清澄荘(大和郡山市)内六町二段半にたいする宗盛家の「無道」な押領を停止し、東大寺のもとに復帰させる(『平安遺文』4043号)。7日にも、同国小東(こひがし)荘(北葛城郡河合町)内の宗盛五町六段・重衡一〇町七段・佐藤能清三町七段、羽鳥新三位(資盛カ)三町七段のそれぞれにつき、同様の措置がとられる(『平安遺文』4100号)。
これらは、平家都落ち前後に平家関係所領の東大寺による奪回が行なわれ(大和に入った源行家軍の圧力を背景としていた可能性がある)、その事実を後白河院に認めさせたということと推測される。
8月6日
・臨時除目。平時忠(57)を除く平家一門200余の官職を解く。また、義仲とともに上洛した人々に対する勲功貰および欠員補充が行われた。義仲とともに戦った人々の多くは、この日に官位を授けられた。但し、頼朝、義仲、行家三者の調整はつかず。
前内大臣宗盛だけは除名処分となる。解官は官職剥奪だが、除名は位階の剥奪。解官されても位階を保っていれば復帰の可能性はある。位階のないものは官職につけないので、除名は解官よりはるかに厳しい措置になる。
8月9日
・京中で略奪等の狼藉が倍増(「玉葉」)。
「京中、物取・追捕、兼日倍増す。天下すでに滅亡しをはんぬ。山窟巖穴閑すべきの所無し。・・・頭の弁兼光を以て仰せ下されて云く、立王の事、思し食し煩う所なり。・・・御卜を行わるるの処、官寮共、主上を待ち奉らるべきの由を申す。而るに猶この事思し食す所に依って、重ねて官寮に問わる。各々数人(官二人、寮八人)の申状、彼是同ぜず。但し吉凶半分なり。」(「玉葉」同日条)。
「去る六日、解官二百余人有りと。時忠卿その中に入らず。これ還御有るべきの由を申せらるが故なりと。朝務のオウ弱、これを以て察すべし。憐れむべし。」(「玉葉」同9日条)。
8月10日
・臨時除目。義仲、従五位下の位階、左馬頭に任ぜられ、越後守を兼ねる。東国の頼朝との摩擦を避け、16日、伊予守に遷任され、平氏を押さえるべく淀川~瀬戸内海を支配する志向を明らかにする。
・この日、初めて践祚のことが議せられる。
・源行家、従五位下、備後守となる。16日、備前守に遷任
・安田義定、遠江守に任じられ、従五位下に叙せられる。平氏追討には参加せず、遠江国に帰る。
・頼朝は、上洛できる条件にないことを理由に、「追って、申請すべし」と申請の先送りを申し出てきた。頼朝に対する勲功賞が延期されれば、義仲が頼朝の上位の官位を授けられても暫定的な上位ということになる。頼朝は、この慣例を利用して義仲との確執が表面化することを回避した。
8月10日
・夜、時忠から神器返還にかんする回答が到来。
「京中落居の後還幸あるべし(京に平穏が戻れば天皇はお帰りになられるだろう)、剣璽巳下(いか)宝物等の事、前内府(宗盛)に仰せられるべきか」とあった。前段は義仲軍の京からの退去要求であり、後段は宗盛と交渉せよというのだから、除名措置を認めていない。つまり都落ち以前の状態への回帰が交渉の前提だというのである。文面「頗る嘲弄の気有るに似たり」と、強気で挑発気味の返書だった。仲介した貞能は「よき様に計らひ沙汰すべし(うまくゆくようなんとかやってみましょう)」と復命した。
「伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨す。且つはこれ義仲の賞と縣隔の故なり。閉門辞退すと。一昨日夜、時忠卿の許に遣わす所の御教書、返札到来す。その状に云く、京中落居の後、劔璽已下宝物等を還幸有るべき事、前の内府に仰せらるべきかと。事の體頗る嘲哢の気有るに似たり。」(「玉葉」同12日条)。
8月12日
・右大臣九条兼実は、八月十二日の日記に当時の情勢を「大略天下の体、三国史(志)の如しか」と評している(『玉葉』)。都には後白河院と木曽義仲がいるものの政治は混乱した状態にあり、東には源頼朝が勢力を張り、西海に落ちた平家はそのころ船百余艘で備前の児島(現岡山県倉敷市)にあった。九州諸国の国守を任命しているとの風説もある。
8月14日
・後白河院は、四宮尊成親王を候補とした新帝即位の準備を始めていたが、この日、義仲が北陸宮こそ次の天皇にふさわしいと主張していることを側近から知らされる。
後白河院は、義仲の要望に配慮して、三宮(惟明これあき)、四宮(尊成たかひら)、北陸宮の三人を対象とした軒廊御占(こんろうのみうら)によって神意を尋ねる旨を伝えた。義仲としては、後白河院が神意に従うと建前論で押してきた以上は、従うしかなかった。
8月16日
・平時忠を解官(当初時忠を通じて神器返還交渉をしようとしたが、10日の時忠の返書で宗盛と交渉するよう言ってきたため)。交渉による神器返還に見切りをつけた。
平家没官領500余ヶ所のうち、源義仲へ140余ヶ所、源行家へ90ヶ所与えられる。その多くは平氏の勢力下にある西国に存在しており、実際に知行できるかどうかは、今後の軍事活動の進展にかかっていた。
「今夕受領除目有り。・・・また解官等有りと。任人の體、殆ど物狂いと謂うべし。悲しむべし。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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