大正12(1923)年
9月8日
・労働運動社、一斉検束。
村木源次郎は検束を免れるが、和田久太郎・近藤憲二は検束。留置先での拷問。「平岩巌は四度気絶、石黒、米山は一度気絶、武良二は後手に吊して水を浴びせられた」と、和田久太郎は記録している。また、大杉殺害が露見した20日から、こうした拷問が止んだことも久太郎は記憶している。
・震災被害のない日本興業・日本勧業・三菱・明愛貯金の各行、横浜正金・台湾・住友の各行東京市内支店、営業再開。15日頃迄に大手各行とも再開。25日、横浜で組合銀行が営業再開。
75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々(『9月、東京の路上で』より)
七日 〔中略〕午後四時頃、バラックから鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて、急に集合させ、主望者に受け取りに行って貰う事にした。
〔中略〕夜中に鮮人十五人貰い、各区に配当し〔中略〕共同して三人引き受け、お寺の庭に置き番をしている。
八日太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。
又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ポクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此此処に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。
千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。こうした記述は翌9日まで続く。
一方、当時船橋警察署の巡査部長の証言では、「近所の自警団から、二人くらいもらいたいが、今日はどうでしょうか、ともらいにくる。それで傷の多いのとか、厄介な奴、人に逆らって喧嘩ふっかけるような奴はいない方がいいと思うから、二人ぐらいずつ自警団に渡した」と駐在所の警官から報告があったという。
この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問で捕まったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに収容所から朝鮮人を連れ出し、高津、大和田、大和田新田、萱田をど、周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていた。
9月4日、戒厳司令部では東京付近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配をも動揺させることを恐れたのだ。
自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆から守られることだけは確かなはずであった。3000人以上の朝鮮人を収容した習志野収容所は、10月未に閉鎖された。
ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄は、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所付近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。
収容される側にいた申鴻湜(18歳・学生)は、収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたが、ともに活動する仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されいた。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言うが、何のあいさつもまいのは妙だ。申は疑問を残したまま、収容所を後にした。
一方、騎兵第14連隊本部の書記だった人物は、習志野騎兵連隊が9月中旬に収容所の営庭で朝鮮人を虐殺したと証言している。
救護する目的でつれて来たんですけれども、朝鮮人が暴動起こしそうだちゅんで、朝鮮人をひっぱり出せという事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも一六人営倉に入れた。それが四個連隊あるんですから。
おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。ねえ、軍隊の中で……そしておかしいようなのを……ホラ、よくいうでしょう。……切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居たわけですね。
切った所は、大久保の公民館の裏の墓地でした。そこへひっぼっていってそこで切ったんです。……私は切りません……三〇人ぐらいいたでしょうね。ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。
いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナこしとったんだか、どこにいたんだかを。
ちょうど、たまたまそのころに、小松川というあそこの橋で朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんですねえ。それでこっちの収容所へ入れてあるのもみんな、調査をはじめたわけです。調査をして、おかしいのをひっぼり出した。たくさん来とったんですけども。
小松川なんかあれですよ。向こうから、朝鮮と思われるようなのをまとめて追い出し、こっちから機関銃ならべて撃ったんですよ。橋の上で、もうみんな、それが川の中へバタバタおこっちゃったわけですねえ。
[当時二五歳、習志野騎兵連隊第十四連隊本部書記]
(千薬県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委民会編『いわれなく殺された人びと-関東大震災と朝鮮人』青木書店、一九八三年)
戦後、軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになる。姜徳相によれば、収容者数と出所者数累計の間に300人近くのずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、このずれのなかに殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。
殺害を行った村人は、その後、盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。右の日記で殺害現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、かそかに卒塔婆が立てられた。
1970年代後半、高津の古老たちが重い口を開く。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。古老たちは、子どもたちに当時のことを証言し始めた。この日記も、中学生の調査を知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだもの。
同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。
98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。
掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。警察の検視の結果、死後数十年が経っおり、当時のものと確認された。その後、遺骨は観音寺に納められ、99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付の朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。
江口渙(1887~1975)『車中の出来事』(東京朝日新聞11月)より
江口は当時、栃木県烏山町(現・那須鳥山市)の実家に滞在していて被害を免れたが、その後、二度にわたって東京に入り、その道中、自警団に殺されそうにまったりした。
この日(9月8日)、栃木へ帰る東北本線の車中で彼が遭遇した出来事。
列車は「屋根という尾根は無論の事、連結器の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面」に避難民を満載していた。車内では、彼らはいかに危険な思いをして逃げ延びたかを興奮して口々に語り合っていた。そこには、朝鮮人や社会主義者の噂も混じっていた。
列車が荒川の鉄橋を渡るとき、眼下に朝鮮人の死体が流れていくのが見えた。すると車内は「あれを見ろよ」という叫び声でいっぱいになり、さらには「物狂しい鯨波(とき)の声でみたされ」た。
人々の興奮が収まった頃、今度は在郷軍人と商人がケンカを始める。誰も関心をもたなかったが、在郷軍人の一言で事態は一変する。
「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
すると車内は一瞬で総立ちとなり、怒声が沸きあがる。群衆に詰め寄られた商人はおろおろと「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」と否定するが、群衆はますます激しく男を責めたてる。そして次の駅に列車が止まると、男は窓からたたき出され、ホームにいた在郷軍人団の中に投げ込まれる。男の体には、在郷軍人たちの鉄拳の雨が降り注ぐ。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」と江口は叫ぶが、制裁はやまない。やがてホームの群衆のなかに鳶口の光がひらめくと、次の瞬明、男の顔から赤々と血が流れる。男はそのまま改札口の彼方に群衆に押し流されていく。
「無防御の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる『大和魂』に対して、心からの侮辱と憎悪を感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧さと卑劣と無節制とに対して」という一文で、文章は結ばれる。
このような暴行は、実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その際、朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。
栃木県では、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅やその周辺で、多くの朝鮮人が暴行された。
検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。
《この日付け新聞報道》
間室亜夫〔当時松山高等学校生徒〕
「在郷軍人や青年団は竹槍や日本刀で武装して不逞漢に対抗した」(『愛媛新報』1923年9月8日)
私の付近では早稲田大学と陸軍士官学校が崩壊して焼けた。2日の明け方頃から○○○○が各所に放火するという事であったが○○等は石油を所持し又は爆弾を持って盛んに火を放って廻ったらしく牛込の付近でも2、3の○○が殺されて居るのを見た。
蛯原詠二〔当時『いはらき新聞』記者〕
「草の中へ首を突込み窒息を免れた恐ろしい一夜」 (京橋三十間堀本社在京記者姥原詠二氏遭難談)(『いはらき新聞』1923年9月8日)
〔2日、浜離宮で〕夕刻になると、大井町方面に集まった2〜3千人の鮮人が離宮の倉庫を目がけて襲来するという噂が伝わった。離宮を護っている近衛兵が喇叭で警戒信号をする、女、子供は悲鳴を挙げる、まるで戦場の騒ぎ。男達は兵士と一緒に門を護ることになったが、突然裏の濱手にときの声が上ったので、「それ鮮人だ!」と騒ぎ出したが、それは月島を追われ大川へ飛込んだ鮮人200〜300名の中の10名ばかり離宮の石垣へ這い上ったのを撃退した声とわかってようやく胸をなでおろした。それからは鮮人襲来の防禦に疲れ切り〔略〕。
「9月8日」の項終り
つづく
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