1894(明治27)年
7月25日
朝鮮、龍山駐留大島混成旅団3,100(大島義昌少将)、牙山の清軍に対して南進開始。糧食・軍需品輸送の手段を持たず、各人は携帯した1日分の食糧のみで出発。古志正綱少佐率いる大隊は人馬徴発に失敗し予定の出発できず、古志大隊長は引責自殺。
26日、水原着。27日、振威着。28日午前4時、振威発。8時30分、素沙場着。28日夜半12時、左翼隊・本隊が素沙場発。29日午前2時右翼隊(武田中佐指揮)が素沙場発。
7月25日
朝鮮政府、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言(「清朝商民水陸貿易章程」「奉天貿易章程」「吉林貿易章程」廃棄)、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼。
7月25日
漱石は伊香保温泉に行き、松葉屋旅館に宿泊。
夜、小屋保治に手紙を書き、伊香保に来ないかと誘う。
「七月二十五日(水)、午前七時二十五分発前橋行で、上野停車場から伊香保に向う。(前橋着は十一時十分)午後六時頃到着する。小暮旅館(小暮武太夫)に行ったが、満員なので、小暮旅館から紹介された萩原旅館(松薬屋 萩原重作(朔))に泊る。夜、小屋(大塚)保治(群馬県南勢多郡木瀬村大字笠井)宛に、北向き六畳で部屋から見る風光はよい、但し浴室は汚い、遊びに来ないかと誘いの手紙を出す。(小屋(大塚)保治が来訪したかどうかは分らぬ)」(荒正人、前掲書)
(略)室は北向の六畳にて兼て御話しの山光嵐色は戸外に出でなくとも坐して掬すべき有様に少しは満足致候然し浴室抔の汚なき事は余程古風過ぎて余り感心仕りがたく候然し汚なき事は伊香保の特色ならんかとあきらめ居候(未だ市街は散歩せざれども)家屋は総体こけらぶきにて眼界の三分一は此不都合な茶褐色の屋根板の為めに俗了被致候かゝる処に長居は随分迷惑に御座候へども大兄御出被下候はば聊か不平を慰すべきかと存じ夫のみ待上候願くは至急御出立当地へ向け御出発被下度願上候也余は後便に譲る
七月二十五日夜 夏目金之助
小屋様
小屋保治が伊香保に行っかどうかは不明だが、実直な小屋は伊香保に向かった可能性は高く、そこで二人の間で楠緒子養子問題が語られ、決着が図られたかもしれない。
「保治が楠緒子に対する愛を『心』のKのように打ち明けたか、漱石が『それから』の代助のように譲ることになったのか。とにかく何かが起ったのである」(小坂晋『漱石の愛と文学』)
7月29日付け、斎藤阿具の日記
(明治二十七年)七月二十九日、夏目氏伊香保ヨリ書面ヲ送ラレタルヲ以テ、本日返書ヲ出ス
7月26日
天皇、27日の大本営御前会議(週2回開催)より伊藤首相の出席を求める。政戦両略不一致解消のため。
7月27日
朝鮮、甲午改革。
軍国機務処(臨時の政府代行機関)設立。領議政金弘集兼任。金允植・趙義淵・金嘉鎮・安駉羽ら開化派。内政改革に着手。12月9日廃止迄の4ヶ月間に208件の新法令議決・公布。31日開国紀元使用決定。8月10日租税金納制、銀行設立決定。11日社会改革案23項目・財政経済改革案6項目公布。銀本位制実施・度量衡統一。
7月27日
この日より、伊藤首相、財政・外交政略上から大本営列席の特例参加が認められる。政戦両略一致を追及。
初め天皇が戦費処理の為に、伊藤首相の大本営列席を求める。伊藤は、首相の「職掌上の関係は独り経費而己に無之、外交政略上に於ても、軍事の動作詳悉不被成ては、外国政府との交渉に差支可申」と、財政・外交政略の両面で大本営列席が必要とし、特例参加。
7月27日
この日付け「東京朝日」。
「開戦の機すでに迫る。我より進みて働きかけの処置に及ぶこと論を俟たず。しからば我はいかなる方向に向かって発動せんか。取りあえず始末をつけざるべからざるは牙山の清兵なり。京城より水原を経て牙山に進み、一挙にして彼を塵にすること、巌石をもって卵子を圧するに斉しきのみ、・・・我が兵ひとたび動くにおいてはまず向う所は牙山なるべしといえり」。
この日付け「時事新報」。清兵が集結する朝鮮牙山への進撃を希望。
「今日に到りては押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり・・・直ちに開戦を布告して、もって懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼支那人をして自ら新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面において大利益なるべし」
7月28日
大井憲太郎(51)、横浜・港座での日清事件政談演説会で演説。
7月29日
成歓の戦い(陸戦の緒戦)
清国軍は、牙山に葉志超提督率いる部隊が駐屯し、牙山から漢城寄りに位置する成歓にも全州から移動してきた聶士成提督の部隊が陣を構えていた。
牙山に向けて進軍する日本軍が成歓に到達し、成歓駅付近で日清間で最初の陸戦が起きまる。
27日、「愛仁」「飛鯨」の清軍第1次増援隊、牙山着(同時に第2次増援隊の海没の報)。清軍は南下する日本軍との決戦を避け、主力の総兵聶士成率いる2千で成歓を防衛、提督葉志超1,500は公州に収容陣地を設営。
29日深夜、大島混成旅団3千は、左右に分かれ、成歓の清軍を夜襲。右翼支隊は清国軍主力を牽制し、本隊が主陣地を攻撃。2時間で月峰山陣地を突破。3,400を壊走させる。聶総兵は公州へ撤退。清軍損害200余・日本軍82。清国軍は敗走しながら反撃し、安城の陸戦(安城の渡しの戦い)で歩兵21連隊のラッパ手木口小平二等兵戦死。
旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた。
葉提督は敗兵を纏め、1ヶ月かけて平壌に辿り着き平壌守備軍総統に命ぜられるが、敗北経験が以降の作戦指導に影響。
7月29日
福沢諭吉「日清戦争は文明と野蛮の戦争なり」、
勝利のためには「内に如何なる不平不条理あるも、これを論ずるにいとまあらず」
(「時事新報」)。
7月29日
仏、凶悪犯法制定。政府による弾圧・予防措置。
7月30日
朝鮮、日本軍、牙山占領。
成歓陥落後、日本軍はさらに牙山に向かって進むが、葉志超提督の部隊は、この地が山間部であり守りが困難な地形であることからここでの戦闘を避け、既に移動した後であった。
31日午前4時、牙山発。8月3日午前6時、水原着。
5日午前8時半、漢江渡河。漢城入城、凱旋式。
7月30日
清国総理衙門、駐清各国公使に日本が国際法をおかして開戦、開戦責任は日本にあると説明。
31日、小村臨時代理公使に国交断絶通告。
7月30日
29日、豊島沖海戦の報が大本営に入り、この日、大本営は野津道貫第5師団長に作戦大方針を示し、師団残留部隊の朝鮮輸送を開始。
7月30日
~11月30日。一葉、『文学界』第19号、21号、23号の隔月に「やみ夜」を発表。
荒れ果てた広大な屋敷の女主人、松川蘭は25歳の美人。年老いた下男夫婦に守られての1人住まい。ある夜門前で伴にひかれて運びこまれた若者は、行き倒れ同然の浮浪者、高木直次郎。お蘭と老夫婦の温情に助けられ、窮迫と孤独を癒すうち、女菩薩とも思うお蘭の父が、投機の失敗の詰腹を切らされ、屋敷内の古池に入水自殺したことを知る。お蘭はその父の援助で衆議院の年少議員となった許婚者の波崎にも背かれ、女夜叉の心になっている。
直次郎をひき逃げした俥は、松川の屋敷前の素通りに急きたてられた波崎のもの。お蘭への愛にも、その将来にも希望のない直次郎がそれを知って屋敷を去ろうとすると、お蘭は、自分を妾にしようと企てている波崎への復讐を示唆。直次郎は刺客となって波崎を襲うが、果たせず、行方不明となり、松川の屋敷も人手に渡り、お蘭の行方もわからぬまま。
お蘭の不幸は、出世や儲けのために他人を犠牲にしてはばからない権力者や政商によるものであり、直次郎の不幸は、早くに親を失い世間に捨てられたことによる。一葉が龍泉寺町で書いた「琴の音」の、美人と浮浪者という組み合わせを、ここではより社会的な存在として位置づけ、それぞれの生い立ちや心情に、物語性とリアリティーを加えていることに注目される。
「やみ夜」は、屈折した恋心をからませてはいるが、堕落した政治に対する抗議を盛りこんだ社会小説ともいうべき内容でもあった。しかし「文学界」の青年作家たちは、「やみ夜」から、むしろ女性としての一葉を読んだ。それまで器用な作家とのみ考えていた一葉を、あらためて女性として見直したことでもあり、たとえば、馬場孤蝶は、手紙に一葉という宛名のかわりに、優婉な女主人公の名の「お蘭さま」としたためてよこしたりもした。"
7月30日
イギリス、対日不干渉決定。
つづく
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