2021年3月1日月曜日

日下徳一『子規山脈 師弟交友録』(古白と鼠骨)(メモ1)「子規は大学予備門の受験準備を始めるため、古白の通っていた須田学舎へ入学し、しばらくの間であったが、十三歳の古白と十七歳の子規が同じ塾舎で学ぶことになったのである。さらに、その年の十月には、友人の清水則遠といっしょに神田中猿楽町の古白の父藤野漸の家の二階に下宿することになり、一年足らず、子規は古白と文字通り寝食を共にした。」   

漱石の略年譜作りを進めていて、それとの関連で漱石の伴走者で漱石と同年令の子規の足跡も併せて追いかけている。昨年末より、子規の晩年についてのメモを始めていて、多分今回でこれを終えることになるハズ。


《これまでのメモ》

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)


早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」


松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)「子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。」


関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」


井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」


日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13終)「紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。.....子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、.....話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は.....父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。」

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ5終)「「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチヤグチヤに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺が無くなり片っ方は七分通り腐っている。八年間も持ったということは実に不思議だ実に豪傑だね」と言った。」


今回は、『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)により、古白と鼠骨に関するメモを掲載する。


《目次》

糸瓜咲て 1

一 漱石の章

1 筒  袖  や   子規との出会い

2 別 る る や   修善寺大患以後

3 朝  貌  や   嫂登世の死

4 吾 妹 子 を   夏目狂セリ

二 虚子の章

5 阿波の遍路の墓 ある幼時体験

6 子規逝くや    兄事すべき人

7 怒涛岩を噛む  「漱石氏と私」 

8 行水の女に   ウキ虚子、シテ漱石 

9 初  空  や  「京都で会った漱石氏」 

10 独楽のはぢける如く よく親しみよく争ひき

三 子規の章

11 戦ひのあとに  父御馬廻加番タリ 

12 土 筆 摘 む 看病人となるべき運命

13 恋にうとき    娶らざりし男 

14 そこ行くは誰そ 古白来レト曰フ 

15 呉竹の奥に   介抱は鼠骨一番上手なり

16 われをみとる人 看護婦はま子との恋 

17 雀の子忠三郎  「根岸庵律女」

四 紅緑の章

18 糸 瓜 忌 や  恥る事多し紅緑

19 梅 が 香 に  虚子、友情は老いず 


14 そこ行くは誰そ ー 古白来レト曰フ

明治二十八年三月六日、子規は日清戦争の従軍記者として大連に赴くために広島に到着したが、従軍許可と乗船命令が出るまで、しばらく待機しなければならなかった。その間を利用して、子規は父の墓参と親類縁者へ従軍の挨拶を兼ね、三月十四日に松山に帰省し三泊した。三年ほど帰省しなかった間に、父の菩提寺の法竜寺の山内を鉄道が横切るなど、周囲が一変しているのに驚きながら、子規はのびやかに故郷の風景を詠んだ。


春 や 昔 十 五 万 石 の 城 下 哉

畑 打 よ こ こ ら あ た り は 打 ち 残 せ

故 郷 は い と こ の 多 し 桃 の 花


故郷の松山にいとこの多いのは当然だが、子規は東京にいる藤野古白もこの中に入れていたのかも知れない。

子規の人生に、大きな影を落とす藤野古白は本名を潔といい、子規より四歳下の従弟で、母は子規の母八重のすぐ下の十重であった。七歳で母を喪い、九歳の時に父漸(すすむ)の勤務の関係で、一家をあげて東京に移った。

後に子規は、古白の三回忌に刊行した『古白遺稿』の中の「藤野潔の伝」で、子供の頃の古白を、神経過敏で我ままいっぱいに育ち、扱いにくい子供だったといっている。一例をあげれば、子規の家へ遊びに来ても、子規が大事に育てている草花を、ことごとく引き抜くという小さな暴君であった。こんな事から、子規は子供時代の古白に「再び近づくことを好まざりき。古白が破壊的の性格は到底余と相容れざるを知りたるなり」と書いている。

しかし、明治十六年六月、子規が念願かなって東京遊学の夢が実現し、日夜、古白に接するようになってから、古白を見る目も変わってきた。というのも、子規は大学予備門の受験準備を始めるため、古白の通っていた須田学舎へ入学し、しばらくの間であったが、十三歳の古白と十七歳の子規が同じ塾舎で学ぶことになったのである。さらに、その年の十月には、友人の清水則遠といっしょに神田中猿楽町の古白の父藤野漸の家の二階に下宿することになり、一年足らず、子規は古白と文字通り寝食を共にした。

この頃の古白は、子供時代のような悪戯を続けていた訳ではない。しかし、度量の偏狭さは昔のままで、人との交際が難しく、しかも人に負けるのを極端に嫌ったから、友人とよく口論し、時にはナイフを振り回すことさえあった。教師はしばしば古白を譴責し、従兄の子規にも古白を戒めるよう命じた。こうした振舞いを子規は、「此の如く甚だしかりしも豪も悪意ありしにあらずして寧ろ無邪気なりしなり」と弁護している。


つづく


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