より続く
日下徳一『子規山脈 師弟交友録』(古白と鼠骨)(メモ3)
・・・・・『古白遺稿』というのは、子規が古白の三回忌に間に合わせるため、病苦をおしてほとんど独力で編集したもので、明治三十年五月に非売品で刊行された。やり出したら他人に委せることの嫌いな子規は、資金集めから古白の残した俳句、和歌、新体詩の選、「藤野潔の伝」や新体詩「古白の墓に詣ず」の執筆、諸家への追悼詩文の依頼など、異常とも思えるほどの情熱をそそいだ。そして、菊判百九十六ページの『古白遺稿』が刊行されたその日に、蕪理がたたったのか子規は高熱を発して、一時、虚脱状態に陥り周囲をはらはらさせた。
『古白遺稿』には諸家の悼句が四十句ほど寄せられているが、漱石、虚子のは次のようなものであった。
恩 ひ 出 す は 古 白 と 申 す 春 の 人 漱石
君 帰 ら ず 何 処(いづこ) の 花 を 見 て 往 た か
私(ひそか)に思ふに古白未だ死せず
永 き 日 を 君 あ く び で も し て 居 る か 虚子
子規は少年時代の古白を敬遠して遠ざけていたが、成人してからは、「古白と最も親しかりし予」というくらい身近な存在になっていた。
子規の古白に対する態度は、従弟や師弟という以上のものがあった。しかし、その間の事情を、碧梧桐は「不幸な古白に対して、肉親の愛といふより、文学の友として、自分は聊か冷淡であつた、といふやうな一種の悔恨を感じていた」(『子規の回想』)といい、また、小島信夫も「幼少の頃からナイフで友人を傷つけるようなところがあったこの詩人は、子規と激しさの点で似ているがために、子規は、つきはなした」(『私の作家評伝』)ともいっている。
二人のいうような悔恨の念があったかどうかは別として、その後の子規はいつか自分も、古白のように死の誘惑に勝てないのではないかと思うようになる。
死の前年、明治三十四年十月十三日の『仰臥漫録』には、・・・・・鬼気迫るような内容が書かれている。公表を目的としない日記だったので、この記述には子規の赤裸々な感情がこめられていると見ていい。ここでは要点だけ書くと、その日、妹と母を外出させた子規は、またしても自殺熱がむらむらとおこってきたのである。寝たまま、枕元の硯箱を見ると四、五本の筆にまじって、小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐が見える。次の間に行けば剃刀もある。しかし、今の子規には次の間まで這って行くことはできない。そこで、手に取ることのできる小刀や錐を使って自殺することも考えてみるが、死に至るまでの苦しみを考えると、とても実行する気にはなれず、子規は誰ひとりいない病床でしゃくり上げて泣き出すのである。それから、死の誘惑を払いのけるがのように枕元の小刀と錐をスケッチし、「古白曰来」(古白来(キタ)レト曰(イ)フ)の四文字を書き添えた。
それから三週間ほどたった明治三十四年十一月六日、子規はロンドンの漱石に悲痛な手紙を書く。
僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、(略)
病室で居ても立ってもおられないほど苦しい時、子規には手招きしている古白の幻影が見えるのである。
つづく
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