1906(明治39)年
12月
年末、菅野須賀子、妹と上京。「毎日電報」社会部記者に就職。堺利彦から寒村との結婚の諒解を得る。
12月
幸徳秋水、中国から留学中の張継と会う 。
12月
清沢洌(16)、横浜港から出航、アメリカ留学。大正2年1月27日横浜港に帰着するが、まもなくアメリカに帰る。
12月
木下尚江「懺悔」(「金尾文淵堂」)
12月
この年、株式の熱狂相場続く。野村徳七も前年以来株を買い続け財産も100万円となる。
この月、弟の徳三郎はこれ以上は危険と株の売却を忠告。徳七も、株式市場が1894~95年の日清戦争後の暴落直前の状況と似てきていることを知る。
12月10日、2~3の大手投資家が売り始めたのを察知し、この日のうちに売り始め週末までには1/3を整理する。しかし、東京の大手投資家が大阪の株を買い始め、株価は毎日上昇し続ける。
26日、徳七の友人で北浜屈指の投資家岩本栄之助も売り始める。それでも、市場は上昇し続け、徳七は大阪の地方新聞に狂乱相場の危険性を警告。
12月
日本坩堝株式会社創立(東京)。
12月
株式会社有恒社創立。旧有恒社の機械類全て継承。資本金20万円。
12月
堺紡績、阿波紡績を買収。
12月
豊田式織機株式会社創立。資本金100万円。
12月
インド議会、他の英植民地の例にならって自治制導入要求。
12月
オーストリア、ベック内閣、普通選挙法上程、可決。
1907年1月26日、フランツ・ヨーゼフ承認。
5月総選挙。
12月
露、最高宗教会議、健全な帝政主義者を国会に選出する事が望ましいことを信者に説明するよう聖職者に要請。
12月1日
石川啄木、処女小説「葬列」(前編)(「明星」)
12月1日
山陽鉄道と西成鉄道、国有化。
12月2日
大阪砲兵工廠賃上げスト。警官出動。
12月2日
民報発刊1周年記念大会。神田の錦輝館。
前年1905(明治38)夏に結成された中国同盟会は、留学生たちに熱狂的に迎えられ、会員は1年間で1万人にのぼった。『民報』の発行部数も当初3千部が、半年で1万部を超え、最高時には4、5万部に達したとされる。
宋教仁の日記。
「晴。九時、宮崎氏とともに(神田の錦輝館で開かれる)《民報》『発刊』記念大会に赴いた。着くともう開会後だいぶたっており、来会者はすでにいっぱいで入口に立っているものが千余人いた。余らは入ることができずそこで傍らの窓から蛇行しながら入った。会場の側にたどりついて見渡すと、場内はすでにいっぱいで立錐の余地もなく、場内に入ろうとしてもとうてい入ることができなかった」。
宋はそこで「特別招待の来賓の方が来られたので、どうか少々おゆずり下さい」と叫びながら、滔天を案内してやっと会場に入ることができた。その時ちょうど孫文が演説をしていたが、万雷の拍手で聴き取れないほどだった。
孫文の後は、数人の会員のほか滔天や23歳の北輝次郎(一輝)ら日本人来賓も演説。神経の細い宋は「拍手の音、万歳を叫ぶ声がじつにうるさくて、余は耐えられないほどであった」と書いている。
「ある人が《民報》の経費への寄付を提案すると、みな賛成した。ちょっとの間にお金を投じるもの、冊子に名前を署するものはどれくらいいたか知れない。しばらくして終え、やっと散会した。散会のとき《民報》臨時増刊号の贈呈券を一人一人手渡し、計五千余枚を出した。その他券を渡すことが出来なかったものと入場できなかったものを合わせると、おそらく一万人に近かったであろう」。
一軒の旅館に5千人もの人が集まったとは思えないが、1年前の「孫文歓迎集会」をはるかに超える人数が集まったのは確かだろう。「未曾有の盛会で、また人心の赴くところを十分に見てとれよう」と、高揚している。
12月2日
(漱石)
「十二月二日(日)、中村不折宛手紙で、『大阪朝日新聞』からの原稿依頼を多忙で応じられぬと断る。小官豊隆宛葉書に、「僕ノウチノ塀ハ奇麗ニナツタ」と書く。」(荒正人、前掲書)
12月3日
名古屋製糖株式会社創立。
12月3日
セオドア・ルーズベルト米大統領、教書で日本人学童隔離命令を合衆国最高裁判所に図る。同時に連邦議会での教書演説で反日的な空気に警告を発する。
12月4日
中国同盟会と洪江会の会員、湖南の萍郷・醴陵、広西省境で蜂起(~13日)。まもなく失敗。(萍卿・醴陵事件)
12月4日
三宅雪嶺ら、新聞日本を退社。
12月4日
■鈴木三重吉「山彦」、三重吉と森田米松(草平」の「隔意ない交際」の始まり
12月4日に、皆が集まったとき、鈴木三重吉の新作が読まれることになった。原稿を読むのには高浜虚子が「ホトトギス」の山会で慣れているので、たいてい虚子が読むことになっていた。その日も虚子が読みはじめたが、三重吉の原稿は消しや挿入が多いので、読み続けられなかった。それで虚子がつかえると、三重吉は「わしでなけれやいけん」と言って、原稿を受けとり、最初から読み出した。
「城下見に行こ十三里、炭摘んでゆこ十三里、と小唄に誰ふといふ十三里を、城下の泊りからとぼとぼと、三里は雨に濡れて来た」というのかその冒頭であった。それを聞いたとき森田米松は、そこに明らかに「草枕」の冒頭の詩的な書き方の影響があるのを感じた。漱石が「草枕」を書くに当って「千鳥」に刺戟されたとすれば、今度は鈴木三重吉がその「草枕」の手法を自分流にこなしてこの抒情的な書き出しの調子を作ったものであった。
漱石をはじめ、虚子、坂本四方太、寺田寅彦、松根東洋城、小宮豊隆、森田米松たちが耳を傾ける中で三重吉は読みつづけた。
物語は短く単純であった。主人公の青年が、広島から十三里川をのぼった山村の豪家に嫁いだ姉に逢いに行く。そこは古い家で、広い山林や田地を持ち、大きな家に多数の使用人を使って昔同様の生活が何代も続いている。義兄はちょうど何里も離れた山林へ伐木のために出張して留守である。姉は病身で弟に久しぶりに逢ったので様々にもてなす。
主人公は昔大名が泊ったという奥の座敷が気に入ってそこで日を過しているうちに、鼠の騒ぐのを追おうとして天井裏から六道の古い手紙を見つける。読んでみると、民さんというこの家の人間らしい男にあてて、棄てられた2女から来た恋文である。古い時代のものらしく、判読に苦しむが、その中に、この家の嫁は27で死ぬことになっている、とある。また裏山の墓へ行って見ると、27で死んだという女の墓が何基もある。自分の姉も27で死ぬのではないかと彼は考える。
鈴木三重吉は休学しているうちに、広島県の加計町という山の町の、友人の加計正文の家へ遊びに行った。その家の山荘の戸棚の天井裏に古くからの手紙が一束あるというので、彼は加計とそれを出して見た。それはどこかの女郎から来たものらしい古い下手な手紙であった。それを土台にして彼は空想でこの作品を作った。
その話を中心にして、古い家の内部や、使用人たちや、自然の風物を、鈴木三重吉は実に生き生きとした抒情的な文章で描いている。
森田米松は、こうして漱石や虚子や寅彦たちの前で自作を読む機会を与えられた鈴木三重吉が羨しかった。それを羨ましいと思うのに森田自身がわくわくしなからそれに耳を傾け、しかも鈴木が読み進むに従って、森田はすっかりそれに魅せられ、圧倒されてしまった。鈴木三重吉はあらゆることを自分の調子にこなし切って、しかも新鮮に描き出す能力を持っている。それが森田を「千鳥」を読んだ時以上に感動させた。
終ってから坂本四方太は「千鳥」より劣ると言った。だが松根東洋城は、この作品ですっかり鈴木の才能に惚れ込んでしまった。漱石はこの作品は刺戦が続くので、聞いていて息苦しいと言った。
森田はその晩下宿に戻って眠れなかった。そして翌朝、早速漱石にあてて「山彦」に対する賛辞を書き送った。漱石はそれを三重吉に送った。鈴木三重吉は森田に対する礼状を漱石に送り、それがまた漱石から森田に送られた。そしてその後森田米松と鈴木三重吉は隔意ない交際をするようになった。明治40年正月号の「ホトトギス」には、夏目漱石が「野分」を書き、それとともに鈴木三重吉の「山彦」が掲載された。
12月4日
ロシア、外相、本野一郎駐露公使に日露協商示唆。
つづく

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