1906(明治39)年
12月
大日本製糖株式会社、台湾工場設立許可を得る。
12月
泉鏡花(数え34歳)「春昼後刻」(「新小説」)
明治36年3月、一時は師、紅葉によって仲を割かれた芸者桃太郎(伊藤すゞ)を落籍させ、紅葉没の半年前から夫婦生活をしていた。紅葉はそれを知っていて黙認していた。10月30日、紅葉が没し、2人は公然たる夫婦になったが、紅葉の意志を気にかけていた鏡花は、すゞを愛していながら籍を入れなかった。
鏡花は日本的情緒に強く心を引かれていたが、そういう雰囲気の集中している花柳界について知ることが少なかった。少年時代には窮迫の中に暮し、青年期は紅葉の膝下にあってストイックな修業時代が長かった。伊藤すゞとの同棲の間に、彼は芸者の修業、その生活の裏面、心理、また芸者の接触するさまざまな方面の社会人のことについて知ることができた。それが、独自の狭い幻想世界に籠りがちな彼に取材範囲を拡げさせた。
彼がすゞを知ったのは明治32年1月の硯友社新年宴会においてであるが、その年末に書いた「湯島詣」、明治34年に書いた「註文帳」、明治36年の「風流線」などには、彼はすゞを通して知った社会の裏面の智識を題材として役に立てた。しかし、それとともに、彼は新しい文学の代表者という地位から、花柳小説の名手という位置へと動いて行った。描写の手腕の冴えは失われていなかったので、通俗作家と見なされることはなかったが、人情小説の名人という特殊な作家となった。
彼がすゞと結婚するまで祖母と弟の豊春と3人で住んでいたのは、牛込の南榎町の小さな二階家であったが、明治36年、結婚と同時に牛込神楽坂に転居した。ここへ越して来てから、彼は紅葉の死に遭い、またその死後、硯友社の権威が目に見えて失墜してゆくのを見ることとなった。しかしこの頃から彼は師の束縛から離れて1人立ちの作家として生活することになり、またすゞとの同棲についても人に気兼ねする必要がなくなった。紅葉の死によって「夜が明けたような気持」を味あったのは田山花袋であったが、泉鏡花もまた、実直に師の死を悲しみながらも、はじめて自由に呼吸ができるようになったことを感じた。
鏡花は実直で小心で、ユーモラスなところもあったか、几帳面な性格で、好き嫌いが激しかった。酒が好きで、親しい人に対してはにこやかに接したが、文壇人に共通な、だらしのない、ボヘミアン的なその日暮しをすることができなかった。収入があるとその一分は必ず貯金する癖があった。彼は吝嗇ではなかったが、無駄なことに金を使うことを嫌った。酒を飲むと彼はおもむろに懐から紙入れを出して、「君、では今日の割前を」という習いであった。そういうことが文壇人に毛嫌いされた。そういう点からも彼は、同門の小栗風葉や徳田秋声との交際よりも、吉田賢龍を通じて彼と同年輩の東大系の学者や評論家との交わりが密であった。中でも彼が親しくしたのは臨風笹川種郎であった。その他竹風戸張信一郎、芥舟畔柳都太郎、嘲風姉崎正治、樗牛の磐弟斎藤野の人などとの交際があり、これ等東大系の評論家はまた、硯友社系文士の中で泉鏡花をほとんど唯一の天才と認め、彼の作品を高く評価していた。
明治38年末頃から、彼は胃腸を悪くしていたので、逗子に転居することにしたが、その広告を出した翌月なる明治39年2月、彼は87歳の祖母を喪った。そのため彼の逗子移転は延期された。彼の弟豊春は、斜汀(しやてい)と号して紅葉門で小説を書いたが、彼は兄の作風を学び、その影響を受けた。だが兄のようには目立った作品を書けず、次第に雑文書きになった。しばらく斜汀は兄と同居していたが、この頃は仲違いして別居していた。前年からこの年にかけての文壇の激しい動き、即ち夏目漱石、島崎藤村、国木田独歩等の新しい作品の続出したことが、泉鏡花に動揺を与えた。彼の取材する世界は古く、彼の描き方は、写実主義などと全く違う特殊なものであった。彼には自分の才能についての自信はあった。また愛読者も多く、発表舞台に困るということもなかった。藤宙外を中心とする春陽堂の「新小説」は、彼が編輯の一員として関係していて、硯友社系作家の拠り所となっていた。
しかし、時勢というものが、いま彼を残して急速に変化しつつあることを認めねばならなかった。博文館には「太陽」に天渓長谷川誠也がおり、この年3月から出た新雑誌「文章世界」には田山花袋がいて、ともに新しい文学思潮の支持者であった。またこの年1月から島村抱月が編輯長として復刊した「早稲田文学」も、この新潮流に対して同情的であった。彼の実弟の斜汀まで、この時期には二葉亭四迷の訳したツルゲーネフに凝り、兄の文学に疑いの目を向け、兄の模倣をすることをやめて新しい写生主義文学に走ろうとした。それが二人の仲たがいの原因になったのであった。
閉鎖的な性格の泉鏡花も、これ等の事実に目をふさぐことはできなかった。文芸を理論的に考えること、海外文学の風潮に心をまどわされることは、いたずらに眼高手低となって作家を萎縮させるというのか師紅葉の教えであったが、鏡花自身もまた、幻想と情緒と人情という枠の中に閉じこもることに心の安定を見出していた。いま、文壇に興った新しい動きを考えることは、一層彼の不安を内攻的にした。
この明治39年春から夏にかけて、泉鏡花は一層身体を悪くした。それは一種の神経衰弱を伴うもので、食べものの選り好みが激しく、それだけに衰弱かいつまでも恢復しなかった。旅行嫌いの彼は、郷里と東京の外の土地をほとんど知らなかった。ただ、4年前の明治38年夏に、やっぱり胃腸を害して、彼は逗子の桜山街道に転地したことがあった。その時は病気のこともあったか、師の紅葉に仲を割かれたすゞと、そこでひそかに暮すことが目あてであった。すゞはまだ妓籍があって本格的に彼の妻になったのではないが、その家で、彼や弟の豊春や書生などとともにそこに2ヵ月ほど暮した。
明治39年初めに転地を考えたときも、鏡花は逗子にきめた。7月になって、彼は、逗子の田越に借りてあった家へ、ほんのしばらくのつもりで移った。そこは逗子の本通りの横の二階家で、家の前には大きな棒が二三本立っていた。家族は妻のすゞと前田という書生と三人であった。この当時の医学では、内臓の疾患があると、それに休息を与えることに治療の主眼をおいたので、医師は彼に軟い、脂気のない、消化のいい食物を摂ることを命じ、生ものを禁じた。神経衰弱が昂じていた鏡花は、その医師の言葉を金科玉条のように守り、焼いたものか煮たものの外は口に入れないようになった。食べるものはほとんど馬鈴薯と粥ばかりであった。ただ彼は魚が好きだったので、魚はときどき食べた。
この家で泉鏡花はほとんど文壇人と没交渉に暮らした。彼は硯友社系の他の作家たちと違って弟子というものを持ちたからなかった。この時代には、門下のものを書生に置くことが、一家をなした文人としての見栄でもあった。だが鏡花は、江見水蔭のように米を買う金もないのに二人も三人もの書生を置いたり、また巌谷小波のように頼って来るものは誰でも家においてやって好き勝手にさせておくということができなかった。彼には熱狂的な愛読者があったので、弟子入りを希望する青年が多かっだが、彼はそれをたいてい断ってしまった。それでも熱心に頼み込むものがあると、彼は根負けして入門をゆるした。
榎町にいた時代には橋本花涙という、鼻下に髭を生やした小役人のような男が弟子になった。橋本は、すでに扶養すべき家族を持っていたので、鏡花ははじめからその原稿を売るように世話してやったが、ものにならなかった。その次に彼の所に入門したのは、早稲田大学生で、猛烈な鏡花信者なる寺木定芳であった。また鏡花が神楽坂にいた頃には、岩永瑞とか田中万逸などが入門し、紅葉の晩年の弟子であった原口春鴻も、鏡花を崇拝して、紅葉の死後鏡花に師事した。これ等の弟子に鏡花は花という字のつく号を与えた。寺木定方は花門という号をもらった。寺木はその後自分の才能に見切りをつけてアメリカへ渡り、商科医学を学んだが、そこでシナの学生と友人になったところ、花門とは女性の陰部の名であると言あれた。その旨を鏡花に手紙で言ってやると、ユーモラスなところのある鏡花は、君の今やっているのか歯科だから紫花がいいだろうという返事をしてやった。鏡花の弟子の中からは一人として小説家らしいものが生れなかった。鏡花の手法には、後輩に分ち伝えるような普遍的な要素が少なかった。
彼の借りた逗子の家は古いあばら屋で、暴風があると雨漏りがし、風のために棒の枝が納折れて落ちた。また夜には軒近くに梟が鳴き、庭の柿の枝は伸びて屋内に入り込み、小さな蟹がいくつも畳の上を横ざまに走ることがあった。鏡花は熱心を読書家で、唐詩を愛し、日本の古典をよく読んだが、中でも十返舎一九の「東海道中膝栗毛」はその愛読書で、毎晩寝るときには、分冊になったその小型本を二三冊枕もとに置くのが常であった。
逗子に来てしばらくしてからも、鏡花の食物恐怖症は直らなかった。鏡花は、食べるものは総て胃腸の負担になるという信念を持ち、粥と馬鈴薯を主食とした。それがいつか東京の文壇に伝わって、鏡花は生活に困って、粥と馬鈴薯で碁している、というゴシップにまでなった。彼はもともと肉類は鶏肉の外決して口にしなかった。漬けものも食べなかった。元来痩せた小柄な男であったが、特にこの時は骨と皮ばかりに痩せ、気力がなくなり、一層その神経衰弱をこじらし、そのために彼の毎日は陰惨なものになった。
魚はときどき食べたので、重石衛門という五十歳すぎの魚屋が泉家を得意としていた。鏡花もこの魚屋が気に入っていた。重右衝門はずぶの田舎ものの鈍重な男で、ひどい酒好きだった。息子が二人あって、長男は海へ出て漁をし、次男がそれを売って歩くのであったか、重石衛門は酒が飲みたくなると、自分で小舟を漕いで沖にいる長男のところへ行き、息子の取った魚の中から好きなものを選んで持ち帰り、自分の気に入った得意四五軒にだけそれを売りに行った。得意先の台所にだまって立っているだけだが、「何かあるか」ときくと、「何もねえだよ」と答えながら盤台の蓋を取る。すると必ずその家で好まれる魚が入っていた。そしてそれを金にすると、彼は清直ぐに酒屋へ行きコップ酒をあおるのか日課であった。
鏡花はまた、たった一つの慰めとして沙(はぜ)魚釣りをした。極端な潔癖で、毎日吸っている煙草すら、その吸口に自分の手が触るのを嫌った。彼は煙草の包みの角に穴をあけ、それを逆さに振って、出て来たのを直接に口に咥えるという程であったから、釣針の餌をつけるのも、魚を外すのも、一緒に連れて行った書生の前田がするのであった。彼はここに住むようになってから、岩殿寺山の上にある観音を信仰するようになり、外へ出る毎に参詣するのを忘れなかった。
逗子に移り住んでからの仕事では、明治39年11月号の「新小説」に「春昼」を書き、12月号に「春昼後刻」を書いただけであったが、「愛火」という小説を書き下してやっぱりその月春陽堂から出した。
(日本文壇史より)
つづく

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