2024年12月9日月曜日

寛仁3年(1019)4月17日 刀伊の入寇Ⅲ.大宰府からの急報が京都にもたらされる

北の丸公園 2013-03-11 ヒマラヤヒザクラ
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寛仁3年(1019)
4月17日
・大宰府より飛駅使が京都に急報をもたらす
このところ病気がちで、先月出家入道した前太政大臣道長のために非常赦が行なわれ、更に、近頃頻発する京中各所の盗賊・放火事件についての対策を議する会議が開かれた。
しかし、4月22日には例によって賀茂祭が行なわれる予定であり、それに先立って19日には斎院選子内親王の御禊がある。
公卿たちの関心はこの祭の準備に注がれて、17日には斎院司の次官を補充するために臨時の除目(任官式)が執行された。

その式の最中、内裏の東門である建春門の左衛門陣に九州大宰府からの飛駅使(早馬)駈けつけ、急報をもたらした。

大宰府からの報告には、刀伊の国の賊船50余隻が壱岐に襲来し、守の藤原理忠(まさただ)を殺害し、島民を捕え、転じて筑前国恰土郡に来襲したとあった。
この日、大納言実資は腰痛のため引き籠り中で、参内しなかったが、夜8時頃、僧の惟円(いえん)が大宰権帥藤原隆家の書状を届けて来た。
隆家は実資と親しかったから、特に実資に宛てて手紙を書き、これを飛駅使に託した。惟円は、もと源遠理(とおまさ)といい、隆家の妻の伯父で、隆家の留守宅を世話していた。
隆家は、長男経輔(つねすけ)の元服の仕度もあって前年秋から京都に帰って来ていた妻にも手紙を書いて、同じく飛駅使に持たせていた。

実資宛の隆家の手紙にはただ一行、
「刀伊の船が対馬に来て、殺人放火した。そこで要所を警備し、兵船を発し、飛駅言上する」
とだけあった。
実資は事件の大要をこれで承知した。

「戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、惟円師が帥中納言(藤原隆家)の書状<ただ一行>を持って来た。」
「今月7日の書状に云(い)ったことには、「刀伊(とい)国の者50余艘が対馬島に来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅(ひえき)言上します」ということだ。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月17日条)

翌18日早朝
太政官から召使いが廻り、午前10時前に参内するように触れて来た。
実資は腰痛を押して参内すべき旨を答え、一方、養子の参議資平を通じて、昨日の上卿行成から大宰府の報告内容を書面で承知し、そのうえで道長のところにいってしばらく面談して、それから参内した。
ところが既に右大臣藤原公季以上の公卿が参入しており、行成に聞いてみると会議はもう終ったという。そこへ会議を主宰した公季が現われて、実資に大宰府の解文2通を渡し、彼にも対策の意見を求めた。

この時初めて実資は大宰府からの正式報告(4月7日付と8日付の2通の解文)に接した。
彼が前夜受け取った隆家の私信も7日付で、隆家が妻に宛てた手紙は8日付であったから、この時の飛駅はほぼ10日で大宰府から京都に到着したことになる。大宰府~京都間は陸路約700kmある。長徳3年(997)の飛駅は、大宰府発9月14日、京都着10月1日なので、17日もかかっている(長徳3年9月は小の月で29日まで)ので、これははなだ怠慢であるといわれた。

実資は解文を見て、公李から陣定の結果を聞き、多少の意見を述べた。
こうして決まったことは例のように、大宰府に飛駅使を発して、要所の警備、賊の追討、有功者の行賞などを命令すること、種々の祈祷をおこなうこと、山陰・山陽・南海・北陸の諸道に警固を命ずることなどであった。

このうち、北陸道警固は実資の意見であった。公季は寛平5、6年(893,894)に新羅の賊が九州を荒らしたときの処置の先例を調べたところ、実資の言葉通り北陸道にも警固の命が下されていることを確認した。

また、この時の大宰府の解文が、飛駅をもって送られて来たので、天皇に対する奏状の形式をとるべきであるのに、2通とも「奏」の字がなく、太政官への報告書の形式であるのは誤りであるということが、会議でも問題になり、大宰府に下す命令の中にこのことを書き加え、注意を喚起することも議決された。先例や形式にやかましい当時の風潮が現われている。

その後、2、3日しても大宰府からその後の模様を報じてこないので、人々はイライラし、憤慨した。

「昨夜、飛駅の解文について、侍従中納言(藤原)行成卿が処理した」と云うことだ。宰相(藤原資平)は、大宰府の解文の詳細を行成卿に問い遣わした。返報の書状に云ったことには、「大宰府の解文に云ったことには、・・・
「・・・『刀伊(とい)国が、対馬・壱岐島を攻撃しました<対馬守(大春日)遠晴が、大宰府に参って、事情を申しました。壱岐守(藤原)理忠は殺害されました。また、筑前国乃古島[「警固所の近々の所」と云うことです]が伝えたことには、・・・」
「・・・「あの賊は、多く来襲して、敵対することができません。その速さは隼(ハヤブサ)のようです」と云(い)うことだ>。帥(藤原隆家)は軍を率いて警固所に到り、合戦することになりました』と云うことです」と。」
「入道殿(藤原道長)に参った。すぐに拝謁した。大宰府が言上した兵船について談られた。」
「次いで内裏に参った。右大臣(藤原公季)、大納言(藤原)斉信・(藤原)公任、中納言(藤原)行成・(藤原)頼宗・(藤原)実成、参議(源)道方・(藤原)公信・(藤原)通任が、先に参入していた。」
「刀伊国について、壁の後ろに於いて(藤原)行成卿に問うた。「議定は、すでに終わりました」ということだ。私(藤原実資)は陣座に着した。・・・私が答えて云ったことには、「諸卿の僉議は、如何だったのでしょうか」と。」
「大臣(藤原公季)が云ったことには、「要害を警固し、追討を加えることとなった。勤功が有った者に賞を加えることとなった。大宰府解は『官裁』と記しているが、本来ならば官符を給わらなければならない。・・・」
「・・・ところが、勅符ではなかったので、遅く到ったのであろうか。函の上に『飛駅(ひえき)』と記し、やはり勅符を給わらなければならない。但し、官符の文には、違例であることを記さなければならない。・・・」
「・・また賞すという事は、前例を調べると、勅符に載せていない。そこで官符に載せることとした。種々の内外の御祈祷<仏事>を行わなければならない。山陰・山陽・南海道は、要害を警固しなければならない事を定め申した」と。」
「私(藤原実資)が云(い)ったことには、「この他には、また申すことはありません。但し、警固しなければならない事は、同じく北陸道にも下給すべきでしょう」と。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月18日条)

4月21日
先日の議決に従い、伊勢大神宮以下の10社に奉幣が行なわれ、賊の退散が祈祷された。
この日は、摂政藤原頼通が賀茂祭に先立って賀茂社に参拝する予定日に当たり、官の奉幣使とかち合ってしまうので、頼通の社参は延期された。
しかし、刀伊襲来のために予定の行事が変更されたのは、殆どこの一事だけといってよく、19日の斎院御禊も22日の賀茂祭も、都では平年となんの変わりもなく見物の群を集めて行なわれた。

4月25日
大宰府からの16日付けの後報が京都に届いた。
また惟円が持ってきた実資宛の隆家の書状も16日付で、前回の飛駅と殆ど同じ日数で届いている。使いは隼船(しゆんせん、早船)で上京して来たとのことであった。

今回の報告には各地での戦闘状況が記され、敵を撃退し、若干を捕えたことが報ぜられており、第一報以来、僅か10日未満で不安は一応去ったことが判明した。
この飛駅の報告は摂政頼通以下大臣・大納言連中の物忌が多かったために、翌26日のうちには奏上するに至らなかったらしいが、27日、実資は頼通の命を受けて公卿を召集して陣定を開き、解文の内容を検討している。

「酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、惟円が帥(藤原隆家)の書状<去る16日の書状>を持ってきた。「異国人が来寇しました。9日に来寇しました。合戦の子細は大宰府解にあります」と。」
「惟円が云(い)ったことには、「使者は隼船(じゅんせん)に乗って参上します。但し、異国は8日、急に能古島に来着しました。同じく9日に博多田(はかた)に乱れて上陸しました。大宰府兵は、急に徴発することはできません。・・・」
「・・・先ず平為忠と平為方が帥(藤原隆家)の先駆として、合戦に馳せ向かいました。異国軍は多く射殺されました。・・・また、兵具や甲冑(かっちゅう)を奪取しました」ということだ。・・・」
・・・「一船の中に5、60人がいました。合戦の場では、人毎に楯を持っていました。前陣の者は鉾を持っていました。次陣は大刀を持っていました。次陣は弓箭の者でした。箭の長さは一尺余りほどです。・・・
「・・・射力ははなはだ猛々しいものでした。楯を穿(うが)ち、人に当たりました。大宰府軍で射殺された者は、ただ下人だけです。将軍である者は射られませんでした。馬に乗って馳せ向かい、射取りました。・・・」
「・・・ただ鏑矢の声を恐れて、引き退きました。<『刀伊(とい)国の人々の中には、新羅(高麗)国の人もいました』と云うことです>。船に乗って遁れ去りました。・・・大宰府軍は、兵船が無いので、追撃することができませんでした。・・・」
「・・・10日と11日は北風が猛烈に吹きました。還り渡ることができず海中に逗留しました。神明が行ったものでしょうか。両日の間、大宰府は兵船38艘を急ぎ造らせて追襲させました。賊徒は遁れ去り本州(高麗)を指して漕ぎ去りました。・・・」
「・・・大宰府の兵船は、また今、20余艘が、勝ちに乗じてこれを追撃しました。また(平)致行朝臣は、10余艘を調備して合流しました。・・・」
「・・但し、先ず壱岐・対馬島に到るように、日本の境に限って襲撃するように、新羅(高麗)の境に入ってはならないということを、都督(藤原隆家)が誡め仰せたところです」ということだ。」
「使者がまた云(い)ったことには、「只今では、追討して平定されたようなものです。賊徒の甲冑や兵具を、少々、奪取されました」と。・・・あれこれの説には、信受することができないばかりである。」
(『小右記』寛仁3年(1019)4月25日条)

その結果、
捕虜の3人は高麗人で、刀伊に捕えられていた者というが、よく調べて賊徒が刀伊なのか高麗なのかを決定報告すべきこと、
捕獲した兵器や捕虜は、京に送る必要はないこと、
筑前の四王寺(しおうじ)で法会を行なうべきこと、
対馬守は本島に戻り、壱岐には権摂使を派遣し、兵粮と防人を配備し、警備を固めること、
などを議決した。
また、壱岐守の殺害の件については、解文に調査結果がはっきり書かれていないと指摘し問題にしている。

続いてこれに基づいて太政官符の草稿が作られ、摂政頼通はこれに農業に励むべしとの一条を加えさせて、5月4日、太政官符に印が押されて太宰府に下令された。

4月16日の大宰府解状に、勇戦した大宰府官人で少弐平朝臣致行という人物が見える(『朝野群載』巻20)。
平致頼の子の一人の致光が大宰権大監の任にあったので(『尊卑分脈』)、一族の可能性がある。
致光は若年の頃、天皇最側近の武力である滝口の武者であった。
その時分、斎王の済子と野々宮で通じたスキャンダルは世を騒がせた(『日本紀略』寛和2年6月19日条)。
さらに、致頼の別の子致経は、宇治殿藤原頼通の身辺に伺候していた。
長大な弓を愛用したので、世に「大矢ノ左衛門尉」と勇名を轟かせた名だたる兵である。
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